すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

父の死因を問いたださなかった私

【くだらない長文・スルー下さい】


【心の整理】


12年前、なぜ私は、看護師さんに、

「父の死因について、医師から話を聞きたい」と、
申し出なかったのだろうか?



その病院は、老人病院だったが、
医師も婦長も、話してみると、まったく親切さがなかった。


ハッキリ言って、驚くほど不親切であり、冷たく、
感じが悪かった。

だから、死因を問いただしたところで、
真実を教えてもらえるかどうか、わからない…

いや、逆に、不親切で横柄な対応をされるだけ、
心が冷えるだけ…かも知れない…


私は、心の隅で、そう予測した。



今、思えば…、


アルツハイマーであり、一人では置いておけない父は、

病院側にとって、非常に手間のかかる大迷惑な患者だった。


本当は受け入れたくはなかった患者、
トットと出て行ってほしい患者だった…。

だから、死亡・退去と決まれば、

案外、もう不親切な対応はしなかったかもしれない…。




しかし、その病院側の冷たさより、何より、

私には、
「これ以上、父と関わり合いになりたくない」

という気持ちがあった…。


それが、私が父の直接の死因を確認しなかった、

最大の理由だった… と思う。




私が、
「将来、父が年を取って老人になっても、私は父を世話出来ない。
母に対しては、面倒をみてもよい気持ちが多少あるが、
父の面倒は見られない。」



…最初に、そう思ったのは、確か私が10歳前後だったか…と思う。


それくらい、私は昔から、父が嫌いだった。


私に対する父の態度や発言を、
「あまりにも勝手だ、ひどい」と、子どもの頃から感じていた。



そして、その思いは、年を重ねる毎に、ますます強くなって行った…。



父は、75歳くらいから記憶力がダメになって行った。


そうなったら世話をするものと、
両親も大きく期待して信じていた兄は、

いざその時が来ると、両親を完全に見捨てた。



もう一人の兄も、多忙で、両親を顧みなかった。


それで、一番近くに住む私が、世話をせざるを得なくなった。



その前から、
幼い我が子を両親に会わせるために実家へ連れて行く度に、
私は、帰宅後に具合が悪くなり、寝込んでいた。



しかし、母が大腸癌で数か月入院、
その上、父がアルツハイマーとなると、
どうしても、私が実家へ行き、色々とやらざるを得なくなった。


介護保険を導入し、階段に手すりをつけたり、

嫌がる母を説得し、ヘルパーさんを依頼したり…。




当時の最初のケアマネさんが、
「お父さんはお母さんを虐待しています」と私に指摘したことは、
今も、忘れられない。


しかし、当時の私は、
父の横暴に慣れ切っていて、指摘を受けても、大して賛同しなかった。

けれど、今、冷静に客観視すれば、

なるほど、父は、妻子を長年、虐待していた…
と分かる。



実際、父は、

母が大腸癌術後の退院をして間もなく、
まだ体力がなく布団に臥せっていた時、

「起きて、ご飯を作れ」と、母に腕を振り上げた…そうだ。


いくら、ボケているにせよ、ひど過ぎる…と、
それを聞いた私は、胸が潰れた。


母の入院に備え、私は父のために宅配弁当を頼んだ。

しかし、父は、途中から「野菜が少ないから要らん」と
弁当を断り、一人で完全自炊を始めた。

83歳だった父のサバイバル力が、
危機的状況に際し、全開になったようだった。

父は、半分ボケていたにもかかわらず、
買い物・調理・片付けと、
大きなトラブルも起こさず、数か月、1人でやりとげた。


しかしそれなのに…、

母が帰宅すると、父はたちまち、
甘ったれの暴君に戻ったのだった。




また、母の入院を機に、母から依頼され、
私は、父の預金通帳を預かることとなった。


アルツハイマーの父が、母が留守でも、家にカギもかけずに
フラフラと長時間出歩くからだった。


しかし、母の入院中、父は私に、
「ワシの通帳がない。返せ!返せ!」と、
何度も何度も、怒鳴った。



仕方なく、私は、母が退院してから、母を連れて銀行へ行った。


「主人は寝たきりで来られないんです」と、母に窓口で言わせ、
父名義の口座を、新しく作った。

その通帳に、100万円入金してから記帳した。

続いてATMで100万円を出金し、これの記帳はしなかった。

そして、その通帳を父に、「ハイ、通帳です」と渡した。

父は、中も改めず、満足げに大きく頷いて自室へと持ち去った。

その表情からは、「娘なんか、信用してなるものか」という
強い意志がありありと透けて見えた。


私の心には、凍った鉛の塊が撃ち込まれた。



その後、本物の方の通帳のページが満杯になり、
通帳を新しくしなければならなくなったことがあった。


当時は、まだATMでの処理ではなく、窓口に申し出る必要があった。

運悪く、ちょうど、「本人確認」がやかましくなっていた。

姓の違う私は、窓口女性に疑われた。

確認のため、実家へ電話をかけられた。

電話を受けた母は、当然ながら、
「ハイ、娘に頼んだんです」と答えた。

それで一件落着して、新通帳を無事に受け取ることが出来た。

しかし、
ずっと窓口前の長椅子に座って待っている間、
私の両目から、とめどなく涙が流れた。


止めようとしても、どうしても止められなかった。




また、その頃から、私は胃が痛み出し、胃腸科を受診した。


もらった薬をタダの胃薬と思い、飲み始めたが、
飲み始めて数日で、
まるで暗い部屋へ明るい春の陽がパーッと差し込むような感じを、
心に受けた。

それを医師に話すと、医師は頷いた。

そして後年、調べてみると、

その薬は、慢性胃炎のみならず、
鬱病にも処方される薬だった。


当時の私は、
両親と頻繁に無理矢理会わなくてはならないストレスから、

鬱病を発症していたのだ…と、今にして理解できる。


医師は、私の沈みきった暗い様子と、
「親に会うと胃が痛む」という訴えから、

この薬が適切だと判断したのだろう…。




以来ずっと、その薬を飲んで来た。


数年前には、胃の調子も良いので、勝手に中止した。

ところが、2週間後に、突然、食事が出来なくなった。

普通に食べ始めるのだが、かなり空腹にもかかわらず、
2口3口食べると、胃がいっぱいになり、
それ以上は全く食べられなくなるのだ。

1週間で、数キロ痩せた。

焦って、胃カメラを撮ってもらったが、異常なし。

ハッと気づいて服薬を再開したところ、正常に復した。

医師からは、
「あなたには、その薬が合っているんですよ」と笑われた。

しかし、この薬がないと生きて行けなくなった…

この薬に自分の命を握られている…

と思うと、非常に情けない…。


もし、この薬が製造中止になったり、
万一、入手困難になった場合、

私はどうなるのか?と思うと、かなり不安でもある…。




話が横にそれた。

87歳の母が眼科で入院手術することとなり、
嫌がる父をショートステイさせる時も、

私は、イヤイヤ、無理矢理に、自分に鞭打って行動した。


母のところと父のところ、双方へ出かけて行き、
二人に会わざるを得ないことが

私には大きな苦痛だった。


なるべく、二人に関わり合いになりたくない…


それが、私の本心だった。



そして、ショートステイで弱った89歳の父が入院した。


一時は長期戦になるかと思われた。


しかし、父は、あっけなく死んだ。




父の死は、私には納得しきれない点が残った。


しかし、私は、医師に問いただすことをしなかった。

これ以上、父に関わり合いになりたくない…

その気持ちが、大きかった。


その上、これからすぐに、葬儀やら何やら、
私が一人で始末を付けなくてはならない。


その方に、気持ちを取られていたのもあった。



…今、思えば、…なんと薄情な娘だろう…と思う。



これが、夫だったら、いやもし、母だったとしても、
私は、医師に問いかけたはずだ。


「直接の死因は、何だったのでしょう?」と…。

それをあえて、しなかった私…。


父から、とにかく、さっさと遠ざかりたかった私…。




死んじゃったんだから、今更、原因を追求しても、生き返らない。


弱っていたから、いずれにせよ、遅かれ早かれ、死んだだろう。

年も89歳だったし、いつ死んでもおかしくはなかった。


これ以上、生きていても、母の負担になるだけで、
父自身も幸せとは言えなかった…。



(当時の母は、父の世話に疲れ果て、
しばしば「もう死にたい」と訴えていた。)




…いろんな考えが輻輳していた。



ただ、根底には、「父と関わり合いになりたくない。」



その気持ちが、大きく横たわっていた。