すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

私が私の温かい母になる

【長文】



まだ小さかった息子を連れ、
実家へ出入りしていた頃の事だ。




私は、
父から
実家に保管されていた、
私の小学生時代の
学校のテスト類やクレヨン画を

渡された。




また、
その数年後、
父が長く保管していた、

数枚の古い写真を
渡された。




父が独身時代の、
戦前の古い写真だ。





私は、
黙って受け取ったものの、
始末に困った。






とりあえず、
両方を
一緒に袋に入れ、
戸棚にずっと、

ほうり込んだままにしていた。






2.3日前、
ふと、
これらの存在を
思い出した。




思い切って、
「エイヤッ!」と
捨てる事にした。





ところが、
屑箱に入れてみると、
屑箱が
一杯になってしまう。





やむなく、
ゴミの日まで、
屑箱の近くに置く事にした。






そのうちに、ふと、
袋の中を、
1度見てから捨てよう…
と思った。




まず、
自分のテスト類とクレヨン画を、
チラリと見てみた。




これには、
良い思い出が
1つも無い。




それどころか、
目にする度に
イヤな思いが
よぎる。





今回も、
同じだった。





両親は
確かに、
これらを長年
保管していた。




しかし、
私が
これらを学校から持ち帰って
母に見せても、
母は

いつも、
黙って受け取るのみ…だった。





小学校6年間、
タダの1度も、
賞められた事はない。





父に至っては、
恐らく1度も、
私のテストや作品類を

ちゃんと見た事がない。





両親揃って、
私には、
極度に無関心だった…。





彼らの関心の的は、
ひたすら、
「優秀な」長男。





長男に比べれば、
次男も、
私も、
「ゴミ」に
過ぎなかった…。




私は
見ているうちに、
それを思い出し、
不愉快になった。




やはり、
バッサリ、
捨てる事にした。





次に、
父が寄越した、

数枚の古い写真を
見てみた。





どこかの職場らしい
集合写真が2枚。



父の勤務先だった小学校の
職員達か?


ひょっとして、
これが父か…と
思われる人物がいる。



しかし、
よく似た感じの人物が2人いて、
どちらなのか?
分からない。



裏は、白紙だ。






老夫婦の写真が1枚。



もしかして、
私の祖父母か、
その親か?と思ったが、


聞いた事もない、
別人の名前が
裏に書かれている。






父が
憧れていた、
高名な学者であった大伯父の、
小さな顔写真があった。



何と、
その人が書いた手紙の写真まで、
あった。





それから、
長い手紙から切り取られたと思われる、
幅数センチの

和紙の切れ端があった。




文字は、
小筆で
書かれている。




これには、



「父の長男から、
大学院に進学した知らせを受けた。
学費がかかるだろうと心配している」


と、書かれていた。




私の長兄が
30歳近くで大学院に進学したのは、
40年前だ。



父が
60歳過ぎ。




長兄は、
父の実家の誰かに宛てて、
その事を

わざわざ知らせる手紙を
書いたらしい。




この手紙の筆跡の主は、
誰か??



相当、高齢の人の筆跡に見える。




とすれば、
当時まだ
存命だったらしい、
父の母親か??





長兄は、
父の命を受けて、
わざわざ
父の母親に
手紙を書いたのか??





父が勘当されて以来、
30年以上、
父と実家の母親の交流は、

ほぼ完全に断絶していた
にも関わらず…。





父が
「長男の大学院進学」を、
わざわざ長男に命じ、
実家の母親に知らせる手紙を書かせた…

とすれば、


実に、
父らしい行為だ…。




父は、
60歳にして、
まだ自分の母親から
認められ、

賞められる事を、
心底
求めていたのだ…。




それも、
たかが、
息子の大学院進学によって…。





40年前の父は、
長男が大学院に進学しただけの事…を、


鬼の首でも取ったように
勝ち誇り、
狂喜乱舞した。




たかが
「大学院生」の肩書きに過ぎない
長男の名刺を、
自分の家の外玄関の

一番目立つ場所に、


何年間も、
貼り出していた。





父は、
長男が、

その分野では一番名門とされる大学院に
進学したのだから、


長男は、
将来、
「大学者」になる事が約束された…


そう、固く
信じ込んでしまったのだ。




自分の長年の野望が、
ついに
長男によって達成される…と、
一方的に

決めつけてしまったのだ…。





長男は、
まだまだ
スタートラインに立ったばかりで、
先行きの保証など、

何1つ、なかったにも関わらず…。






客観的に見れば、
それは、
単なる父の「妄想」「欲望」に

過ぎなかった。




自分が理想とする未来が
実現する事を、
父が

勝手に盲信してしまっただけだ…。





そして、
現実には、
父の理想は
実現しなかった。





長男は、
「大学教授」には、なった。




しかし、
実態は、
名前を書けば誰でも入れると言われる

4流大学の教員だ。





そして
父は、
それを恥じた。




人には、「大学名」を伏せ、
「長男は文学部教授です」と、

話していた…。





実に、
愚かしい。





父は、
「誇大妄想」を持ちながら、
それが

潰えた後も、
本当には
反省していなかった。




最後まで、
「誇大妄想」に
しがみつき、
とらわれていた…。





父の
愚かしい「誇大妄想」と言えば、
もう1つ、
あった。





それは、
次男の1人息子についての
妄想だった。






私の次兄には、
1人息子が
いた。




次兄の妻は、
いわゆる
「教育ママ」だった。




1人息子が
幼い頃から、
公文をやらせたり、
熱心に、

型にはめる教育をしていた。





その1人息子が、
中学生の頃だったろうか…。



父は、私に、
こう言った。



「あれは、
母親が
シッカリ教育してるから、
東大に入る。」




私は、
唖然とした。




次兄の方の家系も、
次兄の妻の家系にも、
東大出など

1人もいない。



それなのに、
「東大に入る」と決めつける
根拠は何か?




父は、


「自分の血の優秀性」を信じ、


それに
「幼い頃からの熱心な教育」が
加えられれば、


「鬼に金棒」だと信じこんだ…
のだった。





次兄の妻は、
確かに、
「教育熱心」だった。




しかし、
彼女は、
やり過ぎた。




1人息子が
中学生の時には、
一切、テレビも見せずに

勉強のみを強制したそうだ。




高校時代には、
過干渉が過ぎて、
1人息子は、

ついに爆発したらしい。



「もう、親でもないし、子でもない」という
大喧嘩を
したそうだ。




そういう、
すったもんだの果て、
1人息子が2浪し、

ようやく進学したのは、
3流私大
だった…。





そして、
彼は、
卒業間際に
自死した。



(次兄は、私に、
「心不全」と
偽っている。)




どうやら、
就職試験に失敗したのが
直接の原因と
思われる。




しかし、
私は、
本当の自死の原因は、


彼の母親が、
彼が幼い頃から
彼の全てを支配し過ぎ、


彼から
「自分で生きる力」
「自分の人生を生きる喜び」を、
根こそぎ、

奪い去ったため…


と考えている。





次兄の妻も
また、
私の父と
同じだった。




狂信的な「学歴信者」だった…。



自分の1人息子を殺してしまう程に…。





次兄は、
私から見れば、
3兄妹の中で、

父の支配と迫害を、
最も逃れた人だった。




しかし
次兄は、
自分の妻に、
思うさま「学歴狂信」を許し、

暴走させてしまった。




次兄もまた、
父の「学歴狂信」の
被害者だった…。




私は、そう思う。






母親からは
教育虐待を受け、
父親からは
見殺しにされた、
次兄の1人息子が、



私は
哀れでならない。




そして、
強い怒りを
禁じ得ない。



たった1度の人生。




私の
たった1人の甥は、


何のために、


この世に
生をうけたのか … !




愚かな母親から
支配され、
いじくり回される為だけ…

だったのか … … !






さて、
父が私に寄越した、
数枚の古い写真…。




その中に1枚、
ハッキリと裏に、


父の名前と年齢、学校が
書かれている写真が
あった。




父は、18歳。



詰め襟の学生服・学生帽姿。



目が、
うつろだ。


全く
生気がない。



気弱さが
垣間見えるだけで、


溌剌とした若々しさも、
明るい希望も、
何もない。



写真館で
カメラに向かってポーズを取っただけの、
うつろな写真。




なるほど…。




母親からの愛に
餓え続け、
母親を

破壊したくなる程に
恨んだまま
成長すると、


こんなに
暗く空虚な、
心細げな、
不幸な表情の青年になるのか…。





父は、
可哀相な青年だった…のだ…。





写真の裏の
万年筆の文字は、
父の自筆だろう。




几帳面な
整った文字だ。



しかし、
虚勢を張った文字だ。



常に
肩肘を怒らせ、
実体よりも、

自分を大きく
目立たせたがった父の気持が
如実に

表われた文字だ。






18歳の父に向かって、
呼びかける。




「あなたは、
13年後、
結婚します。



しかし、
妻と子どもたちの人権を認めず、
横暴に支配し、
家族皆を

不幸にしてしまいます…。



しかし、
あなたには、
そんな生き方しか、

出来なかったのですね…。」





父は、
母と子ども達に対して、
残虐な

加害者だった。




しかし、
父は、
同時に、

哀れな
被害者でもあった…。






写真は、
そのまま屑箱に捨てるのは、
可哀相な気がして、
また、

屑箱の横に置いた。






今朝になり、
1つの考えが
ひらめいた。




「そうだ!


もう1度、
テスト類を
よく見てみよう。



両親の代わりに、
今の私が、
小学生の私に、

声を掛けてやれば
良いのだ。」





もう1度、
テストを広げて
眺めた。



小学校1~3年生と、
5年生の物だ。


その他は、ない。



一番多いのは、100点、


次が90点だ。


算数は、悪くても80点。


国語は、悪くても90点。




子どもだった私、
なかなか
健闘しているじゃないか!





「よく、やってるね!」と、
小さい私に、

言ってみた。





冬休みの宿題の日記や作文も
あった。



読んでみると、
やたらと、
「反省」が
書かれている。




小学生の私は、
何よりも

教師の目を気にして、


教師に
突っ込まれる前に
自分で突っ込みを入れ、
『ダメだ、ダメだ』と



反省して見せていた。



つまり、
かなり、

イジケた子どもだった…のだ…。




この頃から
既に、
自己肯定感に
乏しく、
自己否定感に

満ちていた…
と、解る。





クレヨン画は、
決して上手い絵ではない。



しかし、
構図は
シッカリしている。



何より、
投げやりにせず
丁寧に、
描いている。




うーん、
なかなか、
良いじゃないの!




小さかった自分に、
「ナイス!」と

声をかける。





そして、
気がついた。




そうだ!




両親が、
両親の役割を
果たしてくれなかったのなら、
私が、

「私の親」になれば
良いのだ。




私が、


「心の中に
今も住む、
寂しくて堪らない
小さな子どもの私」を
温かく見守り、


「小さくて弱い私」の
一番の味方になり、


「小さくて弱い私」の
「応援団長」になれば
良いのだ。






かつての私が


息子の「一番の味方」になって
息子を見守り、


常に
息子の「応援団長」を
自認していたように、


これからは、



私自身が、私の
「温かくて優しい母」


「私を責めず、
ひたすら私を賞める母」に
なれば
良いのだ!





これまでの
私は、
20年間、
「息子の母」だった。




これからの
私は、
「私自身の母」に
なれば
良いのだ。






私が、
息子の母として
心がけたのは、


いくら
息子の欠点が大きくても、
決して

それを指摘したり、
無理に直そうとしない事だった。




逆に、
私は、
息子の「美点・長所」を取り上げ、
それを賞め、

大きく伸ばす事に
力を注いだ。




いつも、
「息子の味方」

「息子の応援団長」で居ようと
心がけた。





長所が伸びれば、
必ず、
短所も
それに引っ張られて伸びる。




息子の長所は、
興味を持った対象に熱中し、

驚く程の集中力と
粘り強さを
発揮する事だった。




これは、
赤ん坊の時から
既に、
明確に現れていた。




しかし、
彼の短所をつつき、

無理に変えようとすれば、
「角を矯めて牛を殺す」事になる。




彼は、
弱く、
敏感なタイプだ。


決して、
強靱なタイプではない。



無理強いをすれば、
簡単に
全体が歪んで崩れてしまう。




私は、
そう考えていた。




幼稚園・学校では、
否応なく、
他人と比較されてしまう。



超臆病・超不器用・超偏食の息子は、
すぐに、

自分の大きな欠点に気づき、
悩むだろう。



外では、
かなり
苦しい思いをする筈だ。




だから、
家に帰って来たら、
もう欠点を
責める必要はない。



母親の私だけは、
息子を責めず、


彼を
温かく受け入れ、


どこまでも味方になり、
彼の大きな可能性を信じ、


明るく前向きに、
力強く
大きな声で応援する存在でいよう…。



私は、
そう決心していた。





…もちろん、
現実は、
そんなに

うまくは行かなかった。




超心配性で完璧主義の私は、
ささいな事に動揺しやすく、


すぐにイラつき、
カッカと頭に血が上り、
ガミガミと叱りつけ、


臆病な息子を
萎縮させていたように思う…。


(息子よ、ゴメン!)





しかし、
とりあえず、
息子のテストや作品類は、

関心を持って眺め、
良い所は、

心を込めて明るく賞めた…つもりだ。





これから
私は、
「私の優しい母」になる。



そして、
私を

優しく許し、
甘やかす。



私を
賞める。



私の可能性を信じ、
明るく
応援する。






これまでは、
真逆だった。




両親が
私を全否定する言葉・態度を、
私は

そのまま受入れ、
自分自身に、

何倍にも増幅して、
ぶつけていた。




私自身が、
誰よりも
私を
激しく非難し、
厳しく断罪し、
冷酷に鞭打っていた。





もう、
そんな事は
やめよう。




自分に、
優しくなろう。





きっと、
「自分に厳し過ぎる私」は、
そう簡単には

消えないだろう。




度々、
顔を出して来ては、
私を罵倒し、
苦しめるだろう。






だから、
「優しくし過ぎる」

「甘やかす」位で、
たぶん、

丁度
良いだろう…。






18歳の父の写真は、
迷ったが、
やはり、

捨てようと思う…。





私は
長年に渡り、
父に支配され、
蹂躙され、
迫害された。




私は、
十分、
父の道具にされた。




私の人生は、
父によって
40年間、
無茶苦茶にされた。






その上、
あれだけ

私を踏みにじった父だったけれども、


私は
最後には、


父の希望通りの
「墓」を必死に探し、
ちゃんと

墓に入れてやった。



供養も
してやった。




もう、
十分だ。




私は、
父に尽くした。







これからの
残り少ない
人生の時間、



私に
必要なのは、



誰よりも


自分を大切にして


生きる時間だろう…。