すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

父は「自己愛性人格障害」

【長文】



高橋和巳氏の
「『病気未満』の心のクリニック」を
読んだ。




その中に、
「自己愛性人格障害」という

「本物の病気」が
紹介されていた。





あまりにも、
私の父に
当てはまるので、
私は
驚いた。




更に、
ネットで調べると、
やはり、

ドンピシャ!!!だった。





…私の父は、
「自己愛性人格障害」…だったのだ…。





その特徴は、


もともと、自分を愛せないため、


「自分を誇大に評価する」


「他者を過小に評価する(そして攻撃する)」


「他者を自分の道具として利用する」


「共感性欠如」


これらのために、
本人または、周囲が困らされる。




原因は、
遺伝子と、環境的要因、

その両方の可能性がある。



環境要因としては、
養育者の過度な批判、

または、
過度な賞賛の可能性がある…。





私の想像では、
父は、
母親から、

「過度な批判」を受け続けたのではないか…
と思う。





とにかく、
父は、
母親に愛されたかったのに、

愛されなかった…。




それで
父は
自分の母親を、
生涯、
ひどく恨んでいた…。





そして、
父は、
周囲の人々と付き合わない、
「引きこもり型」だった。



だから、
世間との衝突は生じず、
自分は、

困らなかった。




しかし、
父は、
家庭内で、

徹底的な暴君だった。




そのため、
母・3人の子どもの人生が

破壊された。





父は、
家では、

のべつまくなしに、
「自分賞め」を、
繰り返していた。




「ワシほど偉い者はない」というような内容を、
繰り返し、繰り返し、

宣言していた。




(今思えば、やはり、本当に異常だった。)





その一方で、
周囲の人々を悪く言っては、

こき下ろしていた。





また、
父にとって、
妻は、
「対等なパートナー」ではなかった。




「セックス付き家政婦」として
利用しているに過ぎなかった。




子ども3人は、
「父の自尊心を高めるための道具」としてのみ

存在していた。





長男は、
父の正統性と優秀性を証明する、
「最優秀な」存在。





娘(私)は、
「賢く、品良く、
父が

人前で自慢できる存在」で
なければならなかった。





一方、
母は、
無知・無教養・ひどい世間知らずの人だった


(今も、変わらない。)



その上、
母の行動基準は、

「世間と同じ事をする」だった。


(それも、今も、同じだ。)





母は、昔、
私が生まれる数年前に、
父と別れたいと、

真剣に
悩んでいた。




しかし、
当時、
「離婚」が、
今のように一般的でなかったためか、
母は、

ついに離婚しなかった。




父に
奴隷のように従属して、
60年、生きてしまった。





いくら昔でも、
母ほど、
夫に踏みつけにされ、
苦労している女は

稀だった筈だ。




だから
「世間並み」を追求する意味でも、
母は、

父と離婚するべきだった。




しかし、
当の母は、
それを自覚出来なかった。




母は、
ひたすら「我慢」を続けた。




そして、
その我慢は、
父への恨みとなり、

終生、続いた。





そして
母は、
しばしば、

苦痛に耐えきれず、


幼い娘(私)を
自分のカウンセラー、

「毒の吐き捨て場」として
不当に
利用せずにいられなかった。




そして、
終生、それを続けた。
(今も。)






やはり、
父と別れる事が、
母にとって

唯一の「正解」だった
私は思う。






こちらの人格を決して認めず、
ひたすら一方的に

支配するだけの結婚相手とは、
人は、

決して幸せになれない。





それを、
母は、

理解するべきだった。





しかし、
母は、
その理解が出来なかった。




母は
愚かだった。






母は、
不幸しか与えない相手から

逃げ出せず、
ズルズルと

同居生活を続けてしまった。






本来、
母が省みるべきは、

決断すべき時に、
決断出来なかった、自身の愚かさだ。





しかし、
彼女は、

自分の愚かさを
自覚出来ない。





彼女の中では、
いつまでも、
自分は、
「可哀相な被害者」だ。





母の中では、
「自分は、悪くない。」





そして、
彼女は、


「顔も、身体も、心も、カタワな娘のせいで、
自分は
更に、
不幸になった」と、


自分を、
納得させている。





その思考の中には、


幼い娘を、
自分が、どんなに痛めつけて来たか、


自分が、
どんなに娘を不幸にして来たか…


また
父が、
どんなに子どもを

自分のために利用し、不幸にして来たか…


という視点は、
微塵もない。







そして、
私自身だが…、


私は、
その両親に、

幼い頃から
「洗脳」されて来た。





母は、
子どもの私に、


「食べさせてやって、
着させてやっているのに、
何を、
これ以上、要求するのか。
それは、
ワガママだ」と、


しばしば、
怒っていた。



幼かった私は、
母の言葉を
受入れ、
自分を責めた。




また、
母は、
やはり子どもだった私に、



「アンタが
1歳で通院・入院したせいで、
自分は、

ものすごく苦労させられた」と
何度も、

繰り返していた。





そして、
私の顔を見る度に、
「手術しなくちゃねえ」と、

繰り返した。



その表情は、
「アンタのその奇形の顔は、
人前に出られない顔だし、

結婚も出来ない」と
雄弁に語っていた。





また、
両親は、
8歳だった私が
同級生の家で見た雛人形セットを

大泣きして欲しがった時、


「コイツは、
父の母親に似た、
とんでもなく悪い性格だ」と
2人揃って断言し、


私の心を
決定的に傷つけた。




その時以来、
私は
両親に、
自分の本心を見せる事が

出来なくなった。






そして、
父は、
「父の望む大学に進み、

父の望む仕事に就く事が、
子どもとしての

正しい生き方だ。



他の生き方は、
全て、
間違った生き方だ」と
何度も、

洗脳を
繰り返した。




そして、
父は、
それを
実際に
行動に移した。




私を、
進学校に進ませるため、
中2から転校させ、自炊させた。



私は
進学校に馴染めず、
高2で中退し、転校した。




しかし、
父は
なおも
諦めなかった。




私の大学と職業を勝手に決め、
強要した。




私は、
「NO」と抵抗し、
自分の希望する大学と
就きたい職業の方向を述べたが、
父は激怒して
私を怒鳴りつけ、
しゃにむに押し切った。




母は、
父の行為を
正しいとして疑わなかった。



そもそも、
母は
私に無関心だったため、
知らん顔をしていた。





そして
私は、
やはり、
父が無理矢理入れた大学に
馴染めなかった。




私は
別の進路に進もうとした。


しかし、
その矢先、
股関節の病気を発病し、

無理になってしまった。






そして、
大卒はしたものの、
「大決裂」が

起きた。






怒り狂った父は、
私を

勘当した。




母も、
私を許せずに、

怒り狂った。






しかし、
数年後、
私は、

実家に戻った。





両親と
和解したかった。





しかし、
両親は、
冷たい視線で

私を見るだけだった。





30歳になった私は、
「両親は、付き合える相手ではない」と判断し、
両親から、

去った。





ところが、
その後、
私に、息子が生まれた。




私は
「子どもには

祖父母がいた方が良いだろう」と
考えた。




自分を押し殺して、
実家に出入りした。




夫が、
母から
もてなしを受けたがった事も、
私に

無理をさせた。





その後、
父のアルツハイマー・記憶障害に重なり、
母が

大腸癌を発病した。





両親に介護が必要となり、
私が

更に
関わらざるを得なくなった。





この頃から、
私は、

ストレスによって寝込む事を
繰り返した。



胃痛に苦しんで
受診もした。




鬱病と慢性胃炎の両方に効く薬を処方され、
以来、

手放せなくなった。





私に助力すると私が思い込んでいた長兄は、
助力するどころか、
逆に、

私を激しく
非難攻撃して来た。




それも、
私には
大きなダメージを与えた。







大卒する頃までの私は、
とにかく完全に、

親に、
洗脳されていた。




親に
コントロールされ、
親の意のままに、

生きていた。





子ども時代から
大卒の頃まで、
私の頭の中身は、
こうだった。





●親は、無力な自分の世話をし、
 食べさせ、生かしてくれた。


●だから、親にタテ突いてはいけない。


●親を大切にし、敬い、親には従わなくてはならない。


●親を悲しませてはいけない。
 親を喜ばせなくてはならない。
 それが、子どもの絶対的な義務だ。


●それなのに、
 私は、生まれながらにして
 親に多大の迷惑をかけた、カタワ者だ。


●私の顔では、人前に出られないし、
 将来、結婚も出来ない。


●私の性格は、
 父の母親(祖母)に似て、とてつもなく悪い。


●私は、生まれつき、
 とんでもなくワガママな、呪われた性格だ。


私は、生まれて来るべきではなかった。


●私には、価値がない。私は、ダメな奴だ。


●両親は、悪くない。
 悪いのは、全て、私だ。


●私に、全責任がある。


●私が、もっともっと頑張って困難に耐え、
 1人で乗り越え、
 親を満足させなくてはならない。


●それなのに、私には、能力が不足しているし、
 頑張る事も出来ない。


●私は、生まれながらにして、ダメな奴だ。






大卒後に
私が引き起こした、
両親との「大決裂」は、


私を、
更に
「やっぱり自分はダメな奴」と思わせる、
惨憺たる結果に終わった。





そもそもが、
「自分は無価値だ」という自己認識が

引き起こした行動だったのだから、
当然の帰結だった。






しかし、
両親は、
私が

「自分は無価値なダメな奴」と信じている結果、
起こした事件だという事も、


その「信念」を
私に強く刷り込んだのが
自分達自身である事も、


一切、
気づかなかった…。





両親は、更に、
私を

否定した。




私を勘当し、
「自分達の子どもである事」を、

完全に否定し去った。




そうして、
私の問題に

ケリをつけた。






…それなのに、
私は

まだ、
そんな両親の愛を求めていた。






だから、戻って行った。






しかし、
そこで、

私が出会ったのは、
「荒涼たる両親の心」だった。





それを悟った私は、
両親から
去った。





あれから、
ずっと永遠に去っていれば…


あるいは、
私は、
平和に過ごせていたかも知れない…。





自分がイヤだと感じるものからは、
「逃げる道」も、
あったのだ…。





しかし、
私は、
「自分の気持ちを犠牲にする事」に、
あまりにも

慣れ過ぎていた。





私は、
「息子のため」「夫のため」に、
自分の気持ちを

無視し、
実家に出入りした。





そして、
介護問題が

発生した。




私は、
実家から
逃げられなくなった。







20年が経った。




その間に、父は死んだ。



しかし、
母は生き続け、
私への心理的虐待を、

いまだに続けている。






昨日、
私は
大塚あやこさんの
「ビリーフリセット無料セミナー」を、
ズームで視聴した。





それで、
私が解った事は、


私が
今まで、
あまりにも、
「両親の立場・両親の眼差し」から
私の問題を

考え過ぎていた…事だ。






子どもだった過去の時代に、
親が

私に刷り込んだ考え方によって、
私は

私の問題を見て、
判断していた。






つまり、
「お前は、ダメな奴。

全部、お前が悪い」という
両親の考えを、
私は、
無抵抗に
そのまま受け取り、
自分の中に
取り込んでいた。





「悪いのは、全部、私。
私は、ダメな奴」と、
長年に渡って、
自分自身を

強く
責め続けていた。






問題は、
今も、

そうである事だ。






朝、目が覚めると、
1番先に、
私の頭
に、
「自分はダメだ」という考えが、

自動的に湧いている。





… こんな状態では、
… 生きて行けない …。





これを、
何とか
せねばならない…。






結局、
「再審請求」が

必要なのだと
思う。





両親が、
一方的に、私を被告とし、
一方的に、私を責め、
罪状と刑罰を宣告し続けて来た、
両親が
検事であり、裁判官であった

私の裁判。


私の弁護人は
いなかった。





私は、
過去60年、
その一方的な裁判結果に従って
生きて来た。





重荷と苦痛を、背負い続けて来た。





… しかし、
 今、思えば、


それは、
不当な裁判だった…
と思う。





被告は、
私ではなく、
逆だろう。






つまり、
両親こそが
被告ではないか。





私を勝手に産んだのに、
親に対する「加害者」だと
幼い私に
罪を着せ、


幼かった私を
一方的に不幸に突き落とし、
苦しめ続け、


一切の不服申立てを却下し、
聞く耳を持たず、


私を
無理矢理に
服従させて来た、
両親。




彼らこそ、
罪に問われるべきではないか。





父と母は、
それぞれ別のやり方で、
私を

心理的に虐待した。





虐待しながら、
彼らは

それぞれ、


「自分は親だから、
間違っていない。正しい。


子どもは、
愚かだから、何も分からない。


間違っているのは、子どもだ」と


強く
主張していた。





たしかに、
子どもだった私には、
理解出来ない事が

多過ぎた…。




だから、
私は
彼らに
言い負かされ、
屈服していた。






しかし、
今なら、

解るのだ。





解っていなかったのは、
父と母の方だった…と。






父は、
何も理解しないまま、
自身を自慢しながら、

死んだ。




精神科医から
「本当に性格が悪いですね」と
自分が断定された事も
知らないまま…。






母は、
相変わらず、

「自分は娘の被害者」だと
アピールしつつ、
私を否定し、

支配し、
不当に利用し続けている。






私に
必要なのは、
以下の信念だ。




○私は、悪くない。私は無力な子どもだった。


○私の子ども時代の不幸感は、
 私の責任によるものではない。


○責任は、大人であった両親にあった。


○私には、幸せに生きる権利がある。


○今まで、
 親に虐げられて
 幸せに生きられなかったのならば、
 これから、

 幸せに生きる権利がある。


○99歳の要介護の母の世話をする必要はある。


○しかし、それによって、
 私自身が
 不幸になる事があってはならない。


○私には、
 自分で自分の幸せを追求する権利がある。


○私の人格を否定したり、
 支配したり、
 不当に利用する相手からは、
 私は離れる権利がある。


○私には、
 私の人格、私の尊厳、私の人権がある。






これらを、
ハッキリと自覚し、
自分の揺るぎない考えとする事。



それが、
私には
必要だ。






先日、
救急センターに運ばれた母に面会した時、
母は、

私を見るなり、
わざとらしい、そらぞらしい
大声で
こう言った。




「ゴメンねえ!


気をつけて、
1歩1歩、歩いてたんだけどねえ、
転んじゃった!」





母は昔、
「1歳のアンタが

股関節の病気になったせいで、
自分は

大変な苦労をさせられた」と、


子どもの私を、
何度も、繰り返し繰り返し、

責めた。




その母の論法からすると、
今度は、
母が

ケガをして入院し、
私に
迷惑をかけるのだ…。




しかも、これで2度目だ。




だから
母は、
謝らざるを得ないのだろう。




母が心配しているのは、
私が母から手を引き、
母を
世話する人がいなくなることだ。




母は、
ほんとうは、
私を
嫌っている。




だから、
本心では、
私に対して「済まない」という気持ちはない。




単に、
自分が「世話係」を失わないために、
それだけのために、
仕方なく、
口先だけで詫び、

私の機嫌をとっているのだ。





それが、
ハッキリと伝わってくる
母の声色だった。





私は、
母に
答えた。




「年を取ったら、皆、転ぶんだよ。



だから、
仕方ないよ。」





そして、
心の中では、
こう
母に言った。




「人間は、
お互いに、
迷惑をかけ合って生きる
生き物なんだよ。




でも、
それは、
お互いに助け合って、

支え合って生きる
という事なんだよ。




そこが、
動物とは違うし、
それが、

人間の素晴らしさ
なんだよ。




それを実感して、
心から感謝し合って、

お互いに、
幸せを感じる事が、
1番

大切な事でしょ。




お母さんは、
それが
解っていないんだよ。




お母さんは、
自分が被害者の立場の時は、

ひたすら
相手を責める。




自分が
イザ、逆に、
迷惑をかける立場になってしまったら、
今度は、
自分を責めて、身の置き所がない





そんな
考え方では、
一生、幸せになれないよ。




もっと、
温かい、
優しい気持ちで
生きようよ。」






…しかし、
母は、
私を

頭から否定している。




私を
とことん、
嫌っている。





軽蔑し切っている私の言葉などには、
一切、

耳を傾けない。





だから、
私も、
心の中だけで、

言う…。






…寂しいけれど、
仕方がない … 。





…母には、
 一生、
 解って貰えないだろう … … 。









長兄も、
ものすごく、
プライドの高い人だ。



自分の留学が
12年間もの長期に渡ってしまったのは、
すべて、
両親のせいだと
彼は
断定していた。



自身の責任もある…とは
つゆも、
彼は
反省していなかった。



そして、彼は、
私を
異常に
見くだし、
激しく
攻撃して来る。



同時に
私を、
「自分の道具」として
扱って
憚らない。



苦労している
私の気持ちなど、
微塵も
考えてくれようとは
しない。




長兄は、
父によって、



「超優秀」
「性格も、頭脳も、最高」だと、


数十年間に渡り、
非常な賞賛ばかりを
受けて来た。



母からも、
「最高の親孝行息子」として、
手放しの
盲愛を
受けて来た。




そんな、
「過度の賞賛を
養育者から受けた」長兄も、
もしかして、
父と同じ、
「自己愛性人格障害」
なのだろうか??









※※
長兄は、確かに、
子ども時代は、
私に優しかった。



長兄も、
私も、
左利きだった。



昔は、
子どもが左利きの場合、
箸と鉛筆は、
親が矯正して右手に直す事が
普通だった。


左手で文字を書く事は
普通、許されていなかった。



しかし、
うちの両親は、
完全に放置した。



おそらく、
矯正するのが
面倒だったのだろう。



そのため、
長兄は、
小学校入学後、
担任教師にいじめられ、
苦労して、
鉛筆を右手に直した。



それで、
長兄は
私の入学前に、
鉛筆を右手に持てるよう、
私を
特訓してくれた。



その御蔭で、
私は入学後、
苦労せずに済んだ。



本来は、
親がすべき仕事を
まだ、小学校5年生の長兄が
やってくれたのだった。



私は、
深く
長兄に感謝した。




また、ある時は、
町に出かけた長兄が
私に
おみやげとして
絵本を1冊、
買って来てくれた事もあった。



これも、
私が5.6歳、
長兄がまだ、
小学校4.5年生の頃の事だ。



「親より優しいな…」
私は
幼心にそう思い、
長兄を
大好きになった。




そして、
成人する頃まで、
私の最も敬愛する人は、
長兄だった…。




そんな長兄は、
しかし、
大学院に入った頃から、
少しずつ変わって行った。



そして、
12年間の留学から
46歳で帰国した時には、
まるで、
人が変わっていたのだった…。