すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

ワタシの人生


既に医療崩壊した国の現場では、
「60歳以上は人工呼吸器を使わない」など、年齢による切り捨てが行われているらしい。


高齢者は救命率が低く、使用してもムダだから…らしい。



明日は我が身…と思うと、モヤモヤする。



要するに、私のモヤモヤの正体は、
「今は、まだ死にたくない」 … のようだ…。



息子を育てている間は、夢中だった。


「息子のため」であれば、何事も耐えられた。


「息子が先に死ぬ」のでなく、「私が先に死ぬ」のなら、それで満足だった…。



今も、息子との関係が良好ならば、
満足して達成感を持って死んで行けただろう…。



しかし、息子は、自立は果たしたものの、
私との関係は非常に良くない。


私の子育ての目標であった、
「大人同士として対等の良好な関係を結ぶ」は、
完全に、打ち砕かれた。


実現の見込みは、ない。



とりあえず、「自立」はさせた。


だから、「子育て失敗」ではない。



しかし、今の私は、抜けガラだ。


あまりにも「息子のために」生き過ぎた結果、
息子が巣立った今、空虚な私だけが残った。



なぜ、空虚か?というと、
息子を授かる以前の40歳以前も、空虚だったから…だと思う。



いつも、親に支配され、
「自分のしたいこと」ではなく、「親がやらせたいこと」を、イヤイヤやっていた…。


心が抜け殻だった。



親の支配から逃れ、
自立してからも、抜け殻のように日々をやり過ごすだけで精一杯だった。


荒廃し傷ついた自分の心を癒しつつ、社会に何とか適応するのに、長い長い時間がかかった。



例えば、小さかった頃に私の憧れの的だった、「バイオリン」・「乗馬」。


これを身につけていれば、今も、きっと楽しむことが出来ていただろう…。



今、もし健康ならば、今からだって、始めようと思えば出来るだろう。


しかし、今の私は、脚に障害があり自由に動かせない。肩は痛くてあまり上がらない。


元気・根気・やる気・体力…すべてが不足している…。



…ならば、代替の「できること」「やりたいこと」を見つければ良い。


ところが、それが見つからないのだ…。



私の人生…何だったのだろう…?…


それに、納得できる確かな答えを自分で出せない今、
私は、まだ、死ねない…。



それとも、
「こんなワタシ」が「ありのままのワタシ」だと、


何一つやりたいことが出来ず、単に子どもを1人育てただけの人生…
それが、ワタシの人生だと…


認め、受け入れ、諦め、観念して死んで行く… 


それでよい…のだろうか …  …