すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

8年前の母の緊急入院

長文です。スルーください



8年前、90歳だった母は、
ある日突然に、背中の激痛に襲われ、

その場から動けなくなった。


重い新聞紙の束を持ち上げた、その時だった。



土曜日の朝。


朝食を済ませ、私は、ホッと一息ついたところだった。


突然、電話が鳴った。


地獄の底から響いてくるような母の声が、
途切れ途切れに聞こえて来た。


激痛のため、
1メートル離れた電話機まで身体を動かすのも、
ようやく…だったらしい。



私は、夫の車で急行した。


母は、居間の床に、うずくまっていた。


「あまりにも痛くて、台所へ行って包丁で刺して、
死のうと思った…


でも、痛くて、動けなかった…」


母は、腹から絞りだすような苦しげな声で言った。



何とか、母を車に乗せ、整形外科病院へ連れて行った。



診断結果は、「骨粗しょう症による、腰椎圧迫骨折」。


「沢山ある腰椎の骨が殆ど潰れており、
潰れていない骨は、1.2個です」
と言われた。



スカスカボロボロの骨で、
「クシャミしても折れるような骨です」
と言われた。



車椅子に乗ったまま身動き出来ない母を、
医師は、そのまま帰そうとした。



私は慌てて、
「独居なので、帰れません。
入院させてください!」と頼んだ。



ところが、医師は、
「ここは、手術する人が入院する病院です。



おたくのような手術出来ない人が入院する病院じゃありません」と、
とりつく島もない、冷たい態度で言い放った。



私は焦って、
「そこを何とかお願いします。


痛みで全然動けないので、家に帰るのは無理なんです。


私も障害者で脚が痛いので、介護は無理なんです!」と
床に頭をこすり付けんばかりに頼み込んだ。

母自身は、当時は少しボケていたため、

医師の話が理解出来ない表情で、
ボーッとして動かずに座ったままだった。



医師は、居丈高に仁王立ちになった態度を崩さなかった。



しかし、それでも顔をしかめながら、こう言った。


「じゃあ、他の病院のベッドが空き次第、
すぐにそっちへ移る、
それまでの2.3日だけの入院だと

約束をするならば、
入院してもいいけど、どうする?」


私は、一も二もなく、飛びついた。



「有り難うございます!


もちろん、それでお願いします!


有り難うございます!」


再び、床に頭をこすりつけんばかりに礼を言った。




無事、病室のベッドへ移動した母は、
看護師さんに病衣に着替えさせてもらった。


その後、母のすぐ傍に近づいた私は、不審を感じた。


…あれ?なんだろう?…この異様な、クサイ匂いは…??



その疑問は、看護師から渡された問診票を書き入れる際に、
解けた。



問診票の問い「最後に入浴したのは、いつですか?」


母に尋ねた。


母の返事は、「1ヶ月か、2ヶ月前。」


…そうか、そうだったのか…。



いや、1ヶ月や2ヶ月ではあるまい。


たぶん、もっとだろう…。



母の家の中は、
いつも、強烈な湿布薬の匂いとお線香の匂いが入り交じり、
その匂いが家全体に充満していて、

他の匂いは殆ど分からなかった。


母の着ている衣服も、同じだった。


しかし、着ていた服を脱ぐと、
母自身の体臭が、におったのだ…。



母の異様な悪臭は、「ホームレスの匂い」だった…。





この時から、遡ること半年前、1つの「事件」があった…。




父は、89歳で死んだ。


その時、母は87歳だった。



母は、数ヶ月の間、茫然と座り込み、
ドンドン痩せて小さくなって行った。


数ヶ月後、ようやく立ち上がって動き始めたが、
それは、父の仏前に食べ物を供えるためだった。


父が生きている間は、
父に食事を作るのが、母の生き甲斐=仕事だった。


父の死後は、
それが、父の仏前に食べ物を供えることに置き換わった。



しかし、それだけでは、
「父の不在」という大きな空虚は、埋めようがなかった。



生きる張りを失った母は、次第にボケて行った。


同時に、体力もかなり失われて行ったのが見てとれた。



母が独居になって、2年近くが経った時、
私は「母には、これ以上、独居は無理だ」と判断した。



ボケ方と体力の弱り方を見て、
「介護付き老人ホーム」が母にふさわしいと、私は考えた。



私が直接介護する選択肢は、私には、なかった。



以前にも書いたが、
息子が生まれてから、

夫は、休日などに、私の実家に息子を連れて行きたがった。


(今考えると、母から飲食のもてなしを受けるのが、
夫の最大の目的だったと思われる。)


当然、私も同行した。


しかし、実家から帰宅すると、
私はいつも、

深い精神疲労からグッタリとして寝込むことがしばしばだった。


なぜ、そんなにも、ダメージを受けたか?



…母から私へ向かって、常に強く放射されて来る
「否定・侮蔑」の眼差し・口調が、
その原因だった…と思う。



母が、私の夫を歓待したのも、
「よくぞ、こんな出来損ないを貰って頂きました。


あなた様に、もし捨てられたら、娘も親もドン底に落ちます。


どうか見捨てないでください」


というのが、底意だった…。



その人と2時間一緒に過ごしただけで、
メンタルをやられ、グッタリと寝込んでしまう、

それなのに、
その人を直接に介護する…
など、私には到底、無理だった。



それから、実は、
私は股関節の病気で、股関節がずっと痛かった。


今はもう使用していないが、
当時及びその数年前から、痛みのため、
私は、杖を手放せない状況だった。



自分の体重移動をするだけでやっとなのに、
人の介護など、絶対に無理だった。



そもそも、
私の家から母の家まで、地下鉄・バス・徒歩で往復すること、
それだけで、私の脚はいつも限界だった。



かなりの負担だった。



その上、
私の息子は、既に受験生になっていて、大事な時期だった。


私の中では、優先順位は明確に、息子>母だった。



それらの事情をどこまで、兄達へ説明したか、
私の記憶は定かではない。



私は、幼い頃から、母にこう聞かされ続けて、大きくなった。



「お前が1歳の時、お前の股関節の病気が分かり、
私は長男と次男の手を引いて、お前を背負い、
病院へ通うのが大変だった!


私は、お前のおかげで、大変な目に遭わされた!」



それゆえ、
どこか身体の不調があっても、それを母に訴えることは、
私にとってタブーだった。



「母に、これ以上の迷惑をかけてはならない。


これ以上、迷惑をかければ、私は母に拒絶され、
この家で生きて行けなくなる。」


それが、幼い頃から私が自分に課した
「生き延びるためのルール」だった。


そのルールは、長く死守された。



母が私に自分の身体不調を訴える事はしょっちゅうだった。



しかし、その逆は、まれだった。

(これが原因で、

私はかれこれ60年、ずっと、ある症状に悩み続けている。


そのことは、いずれまた書くかも知れない。)



従って、
夜眠れないほど深刻な脚の痛みも、
私は、母に告げたことはない。



一番身近な同性の母に告げたことがないのだから、
当然、父や兄達にも告げることはなかった。



要するに、
私の股関節の状態が

「介護」など全く無理な、深刻な状況だという事実を、
母も兄達も、誰も理解していなかった…と思う。




しかし、
私の中では、「母の介護は施設で」と、確定していた。



幸い、母の遺族年金と父の残した預金が、
それを十分可能にした。



私は、まず1か所、
私の家と母の家の中間地点にある老人ホームを見学に行った。


「まずまずだわ…」と私は思ったので、次に、母を説得した。



母は、「そんな集団生活はイヤだ!」と、頭から渋った。


しかし、私は「とにかく、見学だけでも」と、説得した。


母には、デイサービスすら、
いくら勧めても頑として見学にさえ行かなかった前歴があった。


そんな母を説得し、ホーム見学へ連れ出すのは、
至難のわざだった。


しかし、私は、しぶとく諦めずに何度も説得を続けた。


そして、奇跡的に、説得に成功した。




しかし、
見学に行ったホームは、母の気に入らなかった。

食堂に座っていた老女2人に母が話しかけたが、

返事が返って来なかった…。


どうも、その2人は、ボケが進行しており、
会話が難しい様子だった。



母は、帰宅後、
「私は、あんな寂しいところはイヤだ」と、

不満そうにハッキリ言った。



私には、静かで好ましいところと思われたのだが、
母には、その静けさが気に入らなかったのだ。




仕方なく、私は、2か所目を探した。


今度は、比較的、母の家の近くに見つかった。


私の家からは遠距離だったが、やむを得なかった。



母と2人で、食堂で昼食を「体験」させて貰った。


まずまずの食事だった。



今度は、前のホームより規模が大きく、
食堂も広く、大勢がいて賑やかだった。


車椅子の人が多い反面、
元気に立ち話をして笑い合っている老女たちもいた。



母は、そのにぎやかさが気に入った。


「あそこは、良いわ~。みんな、笑って話をしてる。」


好感触に力を得た私は、
「じゃあ、1度だけじゃなく、もう1度行ってみよう。


それで問題がなかったら、あそこに決めよう」と、提案した。


母は、すんなり同意した。




それから私は、
普段は殆ど没交渉の兄2人に、

メールで事の成り行きを知らせた。


次兄からは、「了解」と、すぐに簡単な返事が来た。


長兄からは、何の返事も来なかった…。




見学から何日も経たないある日、私は、母に電話をした。


当時の私は、
毎日電話で母の安否確認をするのを、「自分の義務」と考えていた。


正直、電話したくない日もあった。


しかし、休んでも、たまに1日。


あとは、休まずに励行していた。




その日、電話に出たのは、思いがけず、長兄だった。



私は、「母と話せる?」と聞いた。


すると、長兄は、
「おかあさ~ん、おかあさ~ん」と、母を呼んだ。



その声の、
甘ったるさ
子どもっぽさ
アツアツの恋人を呼ぶかのような調子に、
私は思わず、

ひっくり返りそうになった。



当時の長兄は、60歳に近かった。



そんな「おっさん」が、
あんな甘ったるい、あんな幼児のような、

若者が熱愛中の恋人を呼ぶが如き声を、
しかも、

自分の老母に向けて発するとは…。


その上、私が聞いている前で…。



私は、驚愕して言葉を失った。



(今、思っても、
実に、あの「声」こそは、

「長兄と母との関係」の全てを、如実に物語っていた…。


あの声を録音し、他の皆に聞かせる事が出来ていたら、
皆一様に、「母と長男の関係の特殊性」を理解しただろう。)




そしてその時、私に、ひとつの記憶が蘇った。



それは、父がまだボケていなかった、ある日のことだった。


父は、私に向かって嘆息まじりに、こう言った。


「長男は、
かあさん (父は母をこう呼んでいた) の恋人だ。


あの二人は、恋人同士だ…。」


父も、二人のアツアツの様子を、
どこかで垣間見て、驚いたのだろう。


そして、父の指摘は、正しかった…。



私は、母の長男への並々ならぬ傾倒ぶりは十分に理解していた。


しかし、長男は、母に対して「もう少しクール」なのであろう…と
勝手に思い込んでいた。



しかし、その想像は、見事に覆された。


本当に、母と長男は、「アツアツの恋人同士」だった…。


私は、改めてその事実を思い知り、言葉を失い、圧倒された…。




それから数日後、母から電話が来た。



なんと、
母は、激怒していた。


怒り心頭に発し、
噴火する激しい活火山のような調子で、
母は私に、こう怒鳴った。



「長男が2晩泊まって、昨日、帰って行った。


帰りがけに、私に、こう言った。


『お母さん、
僕は、大学で福祉を教えている専門家だから、
何でも知っている。


お母さんの歳で、老人ホームに入ったら、
1年で病気になって死んでしまう。


国で調べた、そういうデータがある。


お母さん、それでも良かったら、老人ホームに入りなさい。』


長男は、そう教えてくれたよ。


お前なんかの言うとおりにしてたら、
私は、1年で殺されるところだった!


バカなお前に、ひどい目に遭わされるところだった!


老人ホームなんか、私は絶対に、入らないからね!!!」



私は、母の熱い怒りの奔流に、
茫然としたまま、押し流された。



唖然として、返す言葉がなかった…。



「もうこれは、
とりあえず、長兄に母を任せるしか、道はない…。」


そう、私は観念した。



昔から、
母は長男の言うことは、
ものすごく有り難がって信用し、重んじた。


私が善意で何か母に助言しても、
母は聞き流す。気にも留めない。


しかし、同じ事を、後から長男が言うと、
母は「長男が教えてくれた」と、ものすごく喜んで、

長男の言葉にいそいそと従う。


昔から、そういうことが繰り返されて来た。




しかし、その後も、
私は母に、恐る恐る何度か電話をして、様子をうかがった。



長兄は、ひと月に1度ほど、
遠路はるばる、母の様子を見に来ているらしかった。


母は、それに満足し切って、幸せそうだった。


しかし、相変わらずボケ気味なのが、私は気になった。



しかし、
母が私を強く拒否してしまった以上、
私には手が出せなかった。



電話で、母に、
「お風呂には入ってるの?」と、私は何度か尋ねた。


「うん、足湯に入ってる。足湯は、暖まるから良いんだわ~。」


そう母が答えることが、度重なった。



「どうも、入浴が間遠のようだ。


でも、
私が何か勧めても、
母はもう私の言うことは聞かない。


それに、
兄が実際に泊まりがけで様子を見に行っているのだから、
大丈夫だろう」


私は、そう思った。



ところが…
大丈夫ではなかった…のだ…。



ボケかかった母は、
ホームレスの匂いをさせるほど、
入浴していなかったのだった…。



私は、悲しかった …。