すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

子の心、親知らず。

18歳の父の写真を破り捨ててから、
考えた。




私に、
自分が長年保管してきた写真を
無言で手渡した時、
父は、
どう思って渡したのだろう…。




まさか、
私が、

全てを廃棄したり、
自分の写真を粉々に破り捨てる…とは、


父は、
夢にも

思ってもいなかっただろう…。




おそらく、
父は、
父の、たった1人の孫となった私の息子に、
自分と、

自分にまつわる人々の写真を
残したかったのではないか?




(それにしては、
18歳の父以外は、
どこの誰かも分からない写真が殆どだった…。



父は、やはりボケていて、
その辺の判断が
キチンと出来なくなっていたのだろう…。)





しかし、
私は、
18歳の父の写真を
とっくりと眺めた挙げ句、
粉々に
破り捨てた。





やはり、私は、
父に対して、
今も、
腹の底からの怒りを禁じ得ないのだ。





しかし、
父の方は、
「私の父への強烈な怒り」に、
気づいてもいなかったのだ…。






私が高校生の時、
父は自信満々に、
こう断言した。





「子どもの事は、親が一番解っている。」





その言葉は、
完全に、
間違っている。





その証拠に、
父は、
私がこんなにも
「父への爆発的な怒り」を

心中に抱えている事を
理解していなかった。





父は、
私が、父が保管していた写真を有り難がると
思っていたのだろう。





笑止千万だ。





私は、
父にまつわる一切の物を
捨て去りたかった…のだ。




それほど、
父を厭悪していた…のだ。






先日、
私は、
NHKドラマ「こもりびと」を見た。


録画したまま、
しばらく放置してあり、
遅ればせながら見た。





見ながら、
泣いた。





子は、親を
愛している。




それは、
極めて幼い時、
親が

無力な自分の面倒を見てくれたからだ。



幼児にとって、
親は「神だった」からだ。





その親を、子は喜ばせたい。


子は、親の期待に応えたい。


そう、心から思っている。




親から叱責されれば、
子は、自分を責める。



親の想像以上に、
自分を内心で厳しく責める。



それは、
子が親を、

深く愛しているからだ。





けれど、親には、
それが解らない。




親は、
「愛しているのは、自分の方だ」


「子の成長は、自分の世話の御蔭」


「親子の愛で恩恵を受けているのは、子の方だけ」と


一方的な見方をしがちだ。





しかし、
事実は、
そうではない。




子の親への愛は、
「親の子への愛」を上回るほど、
大きく強い。




子が無力なために、
「子の愛」も、
弱く、小さいように見えるだけだ。





親も、
かつては、子だった。



その頃を思い出せば、
必ず

解る筈なのだが…。






確かに、
親は子に、
時間と金と労力の多くを費やしている。




しかし、親は
「子育て」の中から、
多くの学びと気づきと癒しを

得ている。




そして、
「子育て事業」をやり遂げる事は
親にとって大きな目標となり、
親の背骨となり、

力強く
親の人生を支える。






何よりも、
「生んでくれ」と頼んで生まれた子など、
いない。




「子」は、
あくまでも、
親の主体的な「産物」である。



「子」は、受け身の存在である。




だから、
親は、
「子を育てる」
「子が生まれて来て良かったと思える」ようにする
大きな責任を

負っている。




「どんな子」であれ、
受け入れ、
愛する責務が
親にはある。






また、
現代の日本社会は、
親の子ども時代以上に、
子どもにとって、
生き難い社会だ。




学業の成績ひとつとっても、
親の生きた大昔にはなかった「偏差値」が
全てを支配している。



校内の成績だけで済んだ、
のんびりした牧歌的な時代は、
遙かに遙かに、遠くなった。




今や、
全国における自分の席次が分かってしまう時代なのだ。





そして、
高校は、ほぼ全入化・義務化した。



子どもたちは、
「偏差値」によって

細かく輪切りにされ、
ほぼ自動的に

進学先を決められてしまう。




中学校は、
高校進学のための予備校と化してしまった。



中学校の教師達は、
「内申点」を人質にとり、
難しい反抗期の子どもたちを、
力で制圧している。




しかも、
子どもたちは通学だけでは足りず、
「受験のための塾通い」が

必須となってしまっている。





今の日本は、
子どもにとって、
とても

息苦しい社会だ。





食べて行くだけで皆が必死だった頃の日本の方が
単純でゆとりがあり、
大らかで、
逆に、
生きやすい面があったろう。





しかし、
親には、

その事が解らない。




親からすれば、
子は恵まれた時代に生きている。



そして、親は
子に「自分が出来なかった贅沢」を
させてやっていると

思っている。





(しかし、今は、
時代が急速に変化して来ている。


「こども食堂」に象徴されるように、
生きて行くだけで大変な親子が急増し、
貧富の格差が急拡大しつつある…。)







ドラマ「こもりびと」では、
父親は、
息子に

謝罪しなかった。




あれだけキツい言葉を息子に投げつけ、
息子を、長年、

苦しめ続けたにも関わらず、
謝罪しなかった。




見ていて私は、
その点が
残念だった。




息子を、
「生きていてくれればいい」と
後ろから抱きしめたのは
良かったけれど…。




自分が
息子を責め立てた言葉が
どんなに息子を、
深く傷つけたか…。




もし、父親が
それを自覚出来ていたら、
必ず、
謝罪の言葉が

出て来た筈だ…。



私は、そう思う。





けれど、
息子は、
謝罪しなかった父を

ゆるした。




父親が、
死が迫り来る残り少ない人生の時間を
息子の為に

精一杯使い果たしたからか…?





しかし、
10年の引きこもりの歳月は、
長く、重
い。




10年間の他人との無接触がもたらす後遺症は、
社会復帰した息子に、
今後、ずっしりと重たくのしかかり
息子を苦しめ、
生きて行くのを難しくするだろう…。




引きこもった歳月だけが、
深く苦しむ時間ではないのだ。




親は、
そこまで、息子を追い込んだのだ。




それを、
父親は理解した上で、
死んだのか?




私には、
父親は

そこまでは
解っていなかったように
思える。





「親の心、子知らず」と言う。




しかし、これは、
親の一方的な言い分だろう。




「子の心」を、
知らない親が

多すぎるのではないか?





結局、
人間は、
互いの立場を、
真には理解し合えない存在

なのだろうか…??




…私には、
わからない…。