すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

父を破り捨てる。

18歳の父の写真を、
なかなか
捨てられない。




捨てようと思いながらも、
棚の上に置き、
毎日、

チラチラと見る。




いかにも気弱そうな、
フニャフニャした軟弱な精神の持ち主が
写っている。




この精神の弱い若者が、
10年後には、
結婚して

妻子を持つ。




そして、
その妻子を

横暴に支配し、
一家の「王」として、
君臨し続けた…のだ。





結局、
父と母とは、
弱く、
愚かで、
不幸な人間同士で
くっついてしまったのだ。




本来、
子を持つべきでない同士で
くっつき、
3人も子を生み育ててしまったのだ。






父が
妻子を横暴に支配したのは、
そもそも

父が
「弱い人間」だったからだ。




彼は、
「弱い人間」だったからこそ、

更に弱い、
女と子どもを、
自分勝手なエゴで

支配したのだ。




そして、
自分を

相対的に強く感じ、
「力の快感」を

得ていたのだ…。





「無力な女こども」を
「1人の人間として大切に尊重」出来るのは、
自身が

強く賢い人間だけだ。





その上、
父は、
「愚か」だったゆえに、
「自分の弱さ」を
冷静に客観的に分析し

反省する事が
出来なかった。





父は生涯、
1つの反省もなく、
「自分は正しい」と

信じ込んだまま、
「横暴な支配」に、

突っ走り続けてしまった…。





父のなした
「最大の悪行」は、
「妻子の人格を、一切認めなかった」事だった。





それは、おそらく、
父自身も、

自分の母親から
「人格」を認められず、
一方的に支配されていたためだろう。





父は
「自分が虐げられた」体験を、

そのまま、
自分より弱い者に対し、
繰り返して行ったのだ。





父は、
「被害者」としての痛みに
苦しんだ。




しかし、
その「虐待構造」を

客観的に分析し、
その家族構造から脱却しようとは

努めなかった。





父は、
自分の母親と同じく

「加害者」になる事で
「被害者」である痛みから

逃れようとした…。





「虐待する親は、かつて自分が被虐待児だった」
と読んだ事がある。





私の父の場合も、
おそらく同じだったのだろう…。





父の場合は、
家庭内に、
「大伯父が大学者」という事実があった。




そして、
それを

一種の「神話」として
大切に崇める親族から

洗脳されて
育ってしまった。




その結果、父は


「大学者の血を引く自分は、
やはり有名学者になり、
世に名を上げなければならない」
という信念を、


幼時から
強烈に植え付けられてしまった。




(若かった日の父は、
徴兵逃れの目的で

大学を中退し
師範学校に転じた。


そして、
「学者への道」を断念した。


しかし、
その後は、
自分の長男を学者に仕立て上げる事で
一発逆転を果たさんとする野望を持ち、
その実現に
邁進した。)






こういう親子関係には、
「個人を尊重する」という精神は、

不在だ。



子は、
「親の名誉欲」を満足させるだけの
道具に過ぎない。






父の生きた時代は、
「個人を尊重しない時代」ではあった。





しかし、
誰もが、
父のように

「妻子を横暴に支配して」生きたわけではない。






父の育った家庭が
「何代も続く寺」であり、
「個人を強く縛る家」だった事にも、
大きな原因があっただろう。





父の母親(私の祖母)が、
とりわけ、

「気が強く横暴なタイプ」の人間だった事も、
大きく影響しただろう。





父の職業が
「僻地の小学校教師」であり、
「弱者の上に君臨」する仕事、
「人付き合いをせずに孤立しても成り立つ仕事」
であった事も、

大きく影響しただろう。





また、
母が、
「愚かで無教養」

「父が簡単に洗脳できる相手」
であった事も、

大きかったろう。





父は
「自分が親である」という事実を
最大限に、

強力な権威として振りかざし、
子どもたちの上に
君臨し続けた。






長男が、
父の敷いたレールの上をそのまま走り続け、
46歳まで学生を続け、
父から仕送りを受け続けた事によっても、


父の「威光」は、
長く衰えず、
父は「家庭内支配者」として、
権力を持ち続けた。







… 本当に … くだらない …。





私は、そう思う。





こんなにもくだらない、
唾棄すべき

父の頭の中の妄想により、



私の人生は、
40年間、
踏みにじられていたのだ…。







ここまで書き、
私は
立ち上がった。






棚の上の、18歳の父を、
粉々に
破り捨てた。