すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

1人でいられる能力・№2

長文



…母と
2人きりの昼間。





家の中、
あるいは、洗濯竿の下で。





母が、
父の日頃の行状について、
私に一方的に、
熱弁を振るっている。




父が、
いかに非常識な行動をしでかし、
それによって、
いかに母が困らされ、
苦しめられたか…。





父が
どれほど、
酷い理不尽な人間であり、



母が
どれほど、
可哀相な被害者であるか…。






聞かされている私は、
5、6歳。





未就学。


幼稚園にも行っていない。





僻地なので、
周囲に人家も少なく、
遊び友達も皆無。





兄2人が
学校へ行ってしまうと、
40歳位の母と
2人きり。





しかし、
母は
家事に忙しく、
私を
構わない。




遊び道具も、
何も買って貰っていない。






母が私を
「愚痴のはけ口」にする時間だけが、
母が、
私に、まともに向き合う時間だった。





何の役に立たない私でも、
母の役に立っているように
思える時間だった…。






斎藤学氏の
「『自分のために生きていける』ということ」を
読むまで、


私の
最古の記憶は、
以上のようなものだった。






しかし、
斎藤氏の文章を読んでから、
私に、
新たな記憶が甦った。






それは、
私が
広い居間に1人、
ポツンと取り残されている光景だ。





考えれば、
8畳か6畳の狭い部屋だ。




しかし、
小さな幼児にとっては、
ガランと広い空間だった。




幼かった私には、
何ひとつ
する事がない。




空虚。




たった1人取り残された
不安。




心細さ。





寂しさ。





いつの間にか居なくなってしまった母を、
心の中で
求める。




母に、
来て欲しいと
願う。




しかし、
それは、
かなえられない。





あの時、
私が感じていたのは、



小さな心を押し潰す程の
不幸感・絶望感…。





しかし、
自分が
何を感じているのか、
言葉にするには、
私は
幼すぎた。





母を
探しに行った。



しかし、
「あっちへ行ってなさい」と、
母に怒られ、
追い返された記憶も、
甦った…。





私より2歳上の次兄は、
6歳で就学したので、


家に1人残された私は、
4歳だった。





…結局、
母は、
私を無視していた。




私を
居間に置き去りにし、
居間とは別室の台所や風呂場で、
ひたすら、
家事に勤しんでいた。




そして
気が向くと、
父の悪口を
思う存分、
私に向かって、垂れ流した。




夢中になって、
長々と、しゃべった。




気が済むまでしゃべると、
また
私を置き去りにして、
家事へ戻る。





私が就学するまで、
そんな日々…だった…。







…当時の私が感じていた、
あの
「不幸感」
「絶望感」
「大きな苦痛」





それが、
斎藤学氏の言う
「耐え難い寂しさ」だったのだ…。





しかし、
私は、
母を「破壊」したい

とまでは、
思っていない。





先日、
大きな白菜を
母親に見立て、
包丁を
めったやたらに突き刺した…と
語る、
ある女性のブログを
読んだ。





その方は、
幼い頃から
母親に、

殴る蹴るの暴力を
受け続けて
育ったそうだ。




長年、
それほどの虐待を受けたなら…
当然の帰結だろう。





けれど
私は、母に
包丁を突き立てたい…とまでは、
思わない。




つまり、
私は母に対し、
「怒り」は、感じても、
「恨み」は

持っていない…。




それは
恐らく、
母が振るったのが
「心理的暴力」のみであり、
「身体的暴力」は、
一切
振るわなかったため…だろう。







そして、
今の私は
自ずと、
私の息子が幼かった頃の日々を
思い出す。





私は、
息子を産んでから、
完全に
「息子中心」の生活に
変わった。




それは、
息子が就学するまで、
続いた。





息子が誕生し、
最初に
私が驚かされたのは、



まだ首も動かせない息子が、
ベビー布団に寝たまま、


小さな指でも握れる、
小さく柔らかいベビー用の
「キリンのぬいぐるみ」を、
ぎゅっと握って
自分のアゴのそばに持って来、


真剣な下目遣いで、
ジッと眺めた、
その目つきだった。




また、
枕元に置いた
「メリーゴーランド」の動きを、
精一杯に、
横目で追った、
その集中した、
真剣な目つきだった。




それを
目撃してからの私は、
息子の関心を引く事に
夢中になった。




息子が興味を示し
熱中する物を、
息子に提供する。




それが、
私の
大きなテーマになった。





淡いパステルカラーの
「メリーゴーランド」に、
赤ん坊の視力でも見えやすいと思われる
原色の色紙を、
鮮やかにぶら下げてみたり…




楽しみながら、
色んな工夫をした。





そうやって、
私は、
家事よりも
「息子と遊ぶ」事を、
最も大切にするようになって行った…。






そんな母親だった私が、
今、
自分の幼児時代を振り返ると、
私の母の行為は、
まさしく
「ネグレクト」だ。




…そう感じざるを得ない…。





しかし
母は、
時々は、
私を振り向いた。





それは、
自分の「愚痴のはけ口」として、
幼い私を
「聞き役」にする為だった。





しかし、
「母の愛」に飢え切っていた
幼い私は、
それをも、
温かい「母の愛」として、
感じ取ってしまった。





私に向かって、
夢中になって
「父の悪口」を言う母を、
これが
「温かい母=私を構ってくれる母」だと、
思い込んでしまった…。






それ程に
私は孤立し、
「人との温かい触れ合い」を
求めていた…。





唯一の
「母と私との密な時間」は、


「5、6歳の幼児の私が、
40歳の母を受け止める時間」だった。






思えば、
それは、やはり、
虐待だ。





なぜなら、
母が
しゃべりまくっていたのは、
「私の実の父の悪口」


すなわち、
「しっかり関係が出来る以前の実の父を、
最初から、
私に嫌わせる話」
ばかり…だったからだ…。





まともな母子関係ならば、



「幼児の私を、
大人の母が
受け止める」だろう。




私が
幼い息子を受け止め、
息子に合わせ、
息子が喜ぶ遊びを
共に楽しく遊んだように…。





しかし、
幼かった私は、
母の「心理的虐待」を、
「母の有り難い施し」として、
感謝し、
喜んで受け取っていた…。







中学・高校・大学と続いた
父の強力な私への支配、



そして、
母の、
「衣食住を満たした上、
高校大学まで進学させてやっているのだから、
親に感謝すべき」
という価値観に、


成人までの私は、
完全に
縛られていた。





成人する以前の私は、
「親に深く感謝」していた。





感謝と服従、
親の期待をかなえることこそが
「子供の義務」だと、
固く信じ込んでいた。





だから、
「怒る」など、
あり得なかった。






私が結婚した後も、
両親は、
「お前はダメ人間。お前には価値がない」と
決めつけ、
蔑んで来た。




しかし、
そんな彼らに、
私は、
自ら近づき、
具合を悪くしては、寝込んでいた。




「息子には、祖父母がいた方が良い」と
考え、
自分を押し殺し、
無理矢理に
両親に接近していた。






そのうちに、
両親は老い、
介護の導入が必要となった。




その時、
あんなにも両親が
「親孝行息子」として
熱愛していた長男は、
サッサと逃げて、
音信不通を決め込んだ。




次男は、
仕事に忙殺され、
ろくに連絡が取れなかった。





老いた両親の近くには、
私しか、
いなかった。





私は、
否応なく、
両親の世話をした。





そして、
その時間が、
15年も続いてしまった。






しかし私は、
3、4年前、
ついに
母を捨てる決心をした。





私はまず、
母に、
「きょうだいを差別して育てた」事実を
指摘した。






しかし、
母は、
事実を認め反省するどころか、
「自分は、平等に育てた」と、
私に
噛みついて来た。




母は
真っ向から
私の言葉を否定し、
全く聞く耳を持たなかった。





そして、
相も変わらず、
私を
「自分の恥」として蔑視しつつ、
私を
自分の手足として、
都合良く利用し続ける事を
やめなかった。





母が
真実を理解し、
反省するなど、
あり得ない。




それは、
太陽が
西から上るのと同じだ…と、
私は、
悟った。





同時に
私は、
母からの「精神的虐待」に、
もう耐えられないと、
判断した。





それは、
私自身を痛め続けるだけ、だと…。






それで
私は、
母を捨て、
「成年後見人」を依頼する決心を
固めた。





しかし、
老人ホームのケアマネ氏から、
強く、
こう言われてしまった。




「成年後見人を依頼したところで、
やはり必ず、
あなた自身が対応しなければなりませんよ。



あなたの仕事は、なくなりませんよ。」





…それで、
私は
断念した。






そして
昨年は、
コロナ禍によって、
老人ホームの「買い物サービス」が
休止されてしまった。



全てが
「家族対応」とされてしまった。




母の食欲・買い物欲は、
99歳になっても、旺盛だ。




その結果、
私は、
母の「御用聞き」と
ならざるを得なくなった。




同時に、
母の「愚痴のはけ口」として、
またしても、
利用される事となってしまった…。




母99歳は、元気だ。




「物盗られ被害妄想」や、
年相応の身体的衰えは、
ある。




しかし、
老人ホームの中では、
99歳という年齢も合せ考えれば、
トップクラスの元気さ…らしい。





ケアマネ氏は、
「こんなにお元気なのですから、
110歳まで行けそうですね」と、
ワハハハと笑った。





しかし
私は、
その言葉を聞き、
ハッとした。





…2年前、
私は、
ある病気が発覚した。





これまでは、
幸い、
無症状で経過して来た。




しかし
最近、
いよいよ症状が出始めた。





ネットには、
「一般人より、10年以上、寿命が短くなる。
発病後は5~10年の命になる病気」と、
ハッキリ書かれている。






急変はあり得るが、
治癒する事はなく、
死に至るのだそうだ。






つまり、
母より、
私が先に死ぬ可能性が
明確に出て来た。





私の人生の先が見えたのだ。






となると、
私はもう、
母の「しもべ」として
蔑視されながら、
都合良く利用されたくはない。





私は、
もうこれ以上、
母から
「カタワ者」として足蹴にされ、
暗いドロドロの沼に沈められたまま、
生きたくはない。






私は、
本来の私らしく、
生きたい。






しかし、
母と私は、
どちらかが死なない限り、
縁が切れない。





…となると、
今後は、
母との会話を避けるのが、
一番良い方法だ…と思う。





そのためには、
どうすれば良いか…。




ケアマネ氏にも相談し、
了解を得られる方法を
考えたい。




しかし、
ケアマネ氏から見れば、


99歳の母こそが
「可哀相な要介護者」。


娘の私は
「その介護を担うべき存在」だ。




娘の私がいくら
「母から

心理的に虐待されている」と
訴えようと、


ケアマネ氏にとっては、
99歳の母こそが、
保護すべき「弱者」だろう。






しかし、
私は、
もうこれ以上、
母から
「虐待」されたくない。







私は
もう、
「虐待母」から、
解放されたい。








先日、
奇しくも、
今の私と同年齢の母の写真を、
ある人から
渡された。



35年前の写真だ。




60代半ばの母は、
非常に若々しかった。




実年齢より、
5歳以上、
若く見える。




なるほど、
100まで生きる人は、
60代では、
まだまだ十分に若々しいのだな…と、
私は理解した。




しかし、
その反面、
母の表情は、
粗野で
単細胞で、
とても60代半ばには見えない、
幼稚な表情だった。




およそ、
知性のカケラも
感じられない。




年齢にふさわしい思慮深さや、
人格的な深みも、
全く感じられない…。




まるで、
小学生が
そのまま年を取ったような表情だ…。





当時の母は、
長男の妻から、
「お父様お母様の面倒は私達が見ますから」と
宣言され、
鬼の首でもとったように、
猛々しく
有頂天になっていた。



そして、
愚かにも、
次男夫婦と私に向かって、


「ほーら、ご覧。
やっぱり長男は、
親孝行息子だよ。


それに引き換え、
アンタらは何だ。


全然
足下にも及ばない!」


という蔑視の態度を
露骨に示してしまった頃だった。




母が、
そんな愚かな振る舞いをしてしまったのも、
なるほど、
こんなにも
「単細胞」な人間だったからだ…と、


私には、
ようやく納得が出来た。





そして、
その後、
30年以上も生き長らえつつ、
母は

いまだに、
「何で、生きてるのかね!」と
何の責任もない私に、
怒って

苦情を訴え続けている…。





それも、
母が元々、
「かなり愚かで幼稚な人間」だからなのだ…と、


私は
理解が出来た…。





そして
同時に、
かつての私は、


こんなにも
低レベルの相手から、
「愛」を得ようと躍起になっていたのだな…と


反省された…。





しかし、
仕方がない。






「母子」という関係は、
否応なく、
子は母に愛着する、
特殊な関係なのだ…。







結局、
母の60年の結婚生活は、
横暴極まりない父から支配されるだけの、
惨めな人生だった。






無力に虐げられた母は、
もっと無力な私を虐待する事で、

かろうじて
「憂さ晴らし」を

していたのだ…。






それが、
今にして、
ようやく解る。






※※
斎藤学氏によれば、
幼い時に母親に愛されず、
1人でいる能力を育てられなかった寂しい人間が、
相手を支配したがる…そうだ




父の母親は、
産婆をして多忙に働いていた。



私は、
その祖母を、
写真でしか見たことがないが、
「非常に気が強く、ワガママで横暴そうな人」だった。





60年に渡り、
母を横暴に支配し、
君臨した父は、
やはり、

非常に
「寂しい幼年時代」を過ごした人なのだろう。




おそらく
父は、
幼い頃に、
愛をくれない母親に
「恨み」を
溜め込んでしまった人なのだろう…。






母と結婚してからは、
母と子ども達を支配する事で、
自分の耐え難い寂しさを
解消しようとした…のだろう…。






その父の横暴な支配が、
母の心を痛めつけ、
母に、
私への
心理的虐待をさせた
1因となったのだろう。






何という、
「不幸の連鎖」だろうか…。






たった1つ、
私の救いは、


私が育てた息子は、
20年ちょっとで、
私からサッサと巣立って行き、
今や、
私を見向きもしない事である。





幼年期から少年期に至るまで、
私の愛と関心を独占した彼は、


おそらく、
たっぷりと
「1人でいられる能力」を
獲得したのだろう…。





私の「愛」は、
彼の心の中で、
彼の血肉と化したのだろう…。





そして、
私は、
見事に捨てられた…。





しかし、これで良いのだ。






息子は、「夫と私の船」から降りた。



「彼自身の船」に乗って、航海を始めたのだ。




ガンバレ、息子!!!







※※※
私がなぜ、
結婚して子どもを生んだか?




それは、
私が「1人でいられる能力」を

持たなかったため、
「子どもにしがみつきたかった」からだ…と、


今、
斎藤学氏の文章を読んで、
私は、解った。






しかし、
今や、
息子は私から去り、
彼自身の人生を生き始めた。






私自身にも、
自立が必要だ。






しかし、
息子に去られた今の私は、
今度は、
「夫」に、しがみついている。






先日、
夫がコロナを発症した疑いが出た時、
夫を失う可能性を思い、
私は恐怖し、
パニックに陥った。




(結局、
幸運にも、
夫の症状は悪化しなかった。


しかし、
本当に感染していなかったのか、否かは、
いまだに、謎だ…。)




そして、
今ではもう、
夫より、
私の方が

先に死ぬ確率が高くなった。





しかし、
それでも、
先が分からないのが、
人間の命だ。





夫にしがみつかなくとも
生きて行けるように、
私は、
「1人でいられる能力」を、
身に付けなくてはならない。







母が私に与えてくれなかった能力を、
60を過ぎて、
私は
自力で
身に付けなくてはならないのだ。






そうしなければ、
「本物の幸福」が、
手に入らない…。






「本当の人生」が
始まらない…。






生きるとは、
なかなか、
大変な事だ…。






あと何年の人生が
私に残されているか、
分からない。






しかし、
「親に奪われた自尊心」を、
正当に回復する事が、


とりあえずの
私の仕事になる。






まずは、
この
「バカ女」という
自己否定に満ちた自己命名を
改めるべきなのだろう…。






…というわけで、
今から、
「バカ女」改め「リラ」と
名乗ろうと思う。







※※※※
子は、
否応なく、
人生で最初に深く関わる母親に、
愛着する。






そして、
人間関係の
基礎の基礎の形を、
最初に深く関わる母親から受け取り、


まっさらな
自分の中に、
1つの形を、強固に、作り上げてしまう。





私の場合は、
親から心理的虐待を受けて
成長した。





母からは、
まず、
ネグレクト。





そして、
8歳で、
両親から、
人格を否定される言葉を、
決定的に
投げつけられた。






そして、
母からの


「お前は、カタワ。
お前の顔は、人前に出られない顔」という


長年に渡る、
そして今も続く、
蔑視メッセージ。






父からは、
進路を強制された。




私が示した意思は、
父によって、
一言で否定され
粉砕された。





そして、
父が強いた進路が
私にとって
「すべて失敗」に終わった結果、
私には、
強烈な敗北感しか
残らなかった。






大卒時点での
私の自意識は、
「自分は無価値」という
惨憺たるものだった…。






それに続く、
暗い20年。







しかし、
私は
新しくスタートせねばならない。






残りが
5年であれ、
10年であれ、



親が
「無価値」だと斬って捨てた私の人生ではなく、



本当の私らしい人生を、


生き始めなくてはならない。