すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

「あぁ、鼻で、分かったんだわ!」

長文です。スルーください




小学校4年生の時、
私は担任に、劇の主役を命じられた。




内気で恥ずかしがり屋だった私には、
かなり辛い事だった。




しかし、
当時の私は、
自分の正直な気持ちを表明する事が、

全く出来なかった。




特に、大人からの命令には、
何であれ、黙って従うしか出来なかった。





今で言う「学習発表会」の劇だ。


当時は、「学芸会」と呼ばれていた。




そして、私の役は、
通常の主役より、
異常に、出番とセリフが多かった。



まず、
最初から最後まで、舞台上に居た。



そして、
セリフがメチャクチャ多かった。


最初から最後まで、1人で長くしゃべり続けた。





とても、
10歳に覚え切れるセリフ量ではなかった。





しかし、幸運な事に、
大半は、
舞台上に倒れ伏した姿勢でのセリフだった。




だから、
大道具の草陰に台本を置き、
ちらちらとカンニングしつつ、
セリフを言うことが自然に出来た。





客席の反応は、どうだったか?




…そこまでは、
セリフの多かった私は、

演じるのに夢中で、
観察する余裕がなかった。




ただ、今思えば、
「懸命に子どもたちを愛する、哀れな母親」の役だった。



だから、ある程度、
見物人のお母さん達の関心を引いた…と思う。






上演後、2、3日経ったある日、
私は、
床屋へ髪を切りに行った。




床屋さんは、
母と同年代の中年女性だった。



彼女は、
私を鏡の前に座らせると、
こう言った。



「劇に出てた子でしょ?」



私は「はい」と、答えた。





帰宅後、
私は母に、その事を話した。



すると、
母は

ひと言、大声でこう言った。




「あぁ、鼻で分かったんだわ!」




それを聞いた私は、
「えっ?そうかなあ?」と、首を傾げた。





しかし、
10歳児には、
その疑問と答えを、
明確に突き詰めて考える事は、
不可能だった。




ただ、
母の言葉によって、
1つの映像が、
私の頭に浮かび上がった。




舞台上の私の顔の、
わずかに歪んだ鼻とわずかに切れた唇に、


強いスポットライトが当たり、
観客の鋭い視線が集まっている…。





…そんな事は、
現実では、あり得なかった。





大昔の、ド田舎の小学校だ。



スポットライトなど、なかった。



舞台上は、むしろ、
薄暗かった。





しかし、
そのイヤな映像は、

拡大され、私の脳裏に強く残った。





わずかに感じた疑問と、
不快な映像が、
私の中で、ずっと、わだかまり、
ふくらみ続けた。





そして、
ようやく結論を出せたのが、
何年くらい後だったか…。




…覚えていない。





しかし、私は、
最後には、結論を出した。





舞台の上に、最初から最後まで、
20分以上、存在する。


しかも、
他の出演者より圧倒的に、セリフが多い。


最初から最後まで、しゃべっている。





それを見ていれば、
誰だって、
その人物の顔や姿が、記憶に残るだろう。






鼻がわずかに曲がっていようが、
曲がっていまいが、
そんな事は関係ない。





しかも、
鼻や唇の奇形は、わずかであり、
観客席の最前方に座らなければ、
認識は出来なかった筈だ。





「顔の奇形が観客に、私を強く印象づけた。」
母は、

そう決めつけた。




しかし、
その母は、
学芸会を見に来た事が、一度もない。





だから、
母には、

そういう客観的な真実が分からないのだ。





すなわち、

「床屋さんが
私を、
曲がった鼻で記憶していた」
というのは、


私のわずかな奇形を、
異常に気に病んだ母の、


全く根拠のない決めつけ
に過ぎない。





私は、
何年もかかって考え続け、
そういう結論を出した。





今、
改めて考えてみれば、
そういう

異常な思い込み、
客観的事実を無視した決めつけを、
母は、

長年に渡り、
子どもだった私に、

ストレートにぶつけ過ぎた。





その罪は、
深く、重い。





本来は、
傷つけなくて済んだ私の心を、
母は、
縦横に深く切り刻み、苛んだ。





子どもだった私に、
母は
徹底的に劣等感を叩き込んだ。





一方、
母の立場に立って考えてみれば、
母は、

確かに不幸だった。




母には、
相談相手や支えてくれる人が

皆無だった。




母は孤立し、
たった1人で、
クヨクヨと悩み続けていた。





また、
私の出生当時の1950年代は、 
露骨に

「障害者やカタワ者を、否定し、蔑む態度」が
社会の中で、

大勢を占めていた。




現代では否定されている「優生思想」が、
当時はまだ、
堂々と
社会的に「正しい考え方」とされていた。





(例えば、
当時の雑誌「婦人の友」には、


「優秀な人々が沢山子どもを産むべき。
なのに、

現状は劣悪者が多く子どもを産んでいる」


という内容の記事が、
堂々と掲載されていた。)





そして、
母の母親=私の祖母も、
露骨に私を

「カタワ者」として否定し、
蔑んだ。




母は、
自分の母親の考え方に、
自然に強く影響された筈だ。





また、
母の価値観は、
「世間と同じ事が、最良。
周囲と違うことは、悪」だった。



母は、
その価値観で
骨の髄まで、ガチガチに凝り固まっていた。
(今も、同じだ。)




その価値観は、
母の育った環境の中で、
母の幼時から、

強力に母に刷り込まれたものだろう。





(「横並びが最重要」という考え方は、
ムラ社会に暮らす日本人には、

実は今も、
かなり多い考え方かも知れない。



最近のアンケートによれば、
マスクをする理由は、

「みんながしているから」という理由が
一番多いそうだ。)






それら全ての母の条件を勘案すれば、


「奇形の娘を否定し、蔑視し、自分の恥とみなす」
という母の行為は、


あるいは、
「必然だった」のかも知れない。





…昔々の、
まだ若く経験値の足りなかった私、
そして、
母が赤ん坊の私に「死」を願っていた事実を

まだ知らなかった私は、


いくら精一杯に考えても、
ようやく、

そこまでしか考える事が出来なかった…。





しかし、
今の私は、

少し違う。




今の私は、
1人の子どもを育て上げた経験を持つ

1人の母親だ。





つまり、
母と同じ「母親」の立場に立ち、
ものを考える事が出来る。





その上、今の私は、
かつて母が赤ん坊の私に「死」を願っていた事も、
既に、知っている。





だから、
今の私は、
母の心の奥底の実態に、
かなり肉薄することが可能だろう…。







*****************








…そもそも、
「何でも、周囲の人と同じにする」が、

母の行動原理だった。




その母が、
なぜ、学芸会に来なかったのか?




周囲の母親は、ほとんど来ていたのに…。




母は、
「父親である夫が同じ学校に勤めている。


だから、夫が娘を見ているはず。


母親までもが見に行く必要はない」と、


考えたのだろうか?




しかし、
「現実」は、
そうではなかった。



父は、
確かに、
私の小学校時代、同じ小学校に居た。




しかし、父は、
運動会にしろ、学芸会にしろ、
ろくに私を見なかった。




1つには、
父には、父の仕事があった。


つまり、
自分のクラスの子どもたちを指導する仕事があった。



だから、
学年の違う私を見る機会自体が、

ほとんどなかった。




しかし、
もし父がもっと普通の父親だったならば、
私を目撃するために、
何とか機会を作り出したかも知れない。





しかし、父は、
私に、完全に無関心だった。




私を見る機会を、
自ら進んで作る事などなかった。




ちゃんと見る機会があった場合すら、
父が私に眼を向ける事は、

なかったのだから…。




それが、
実際の現実だった。





そして、
そういう現実は、
母が、

父からちょっとでも話を聞けば、
すぐに確認出来た筈だ。





しかし、母は、そうはしなかった。





そもそも、
母は、
父親と母親のどちらも娘を見なくて構わない、


…そう思っていたのだろう。





そう考えれば、
母の行動に、説明がつく。





つまり、母は、
娘の学校生活に対し、
徹底的に無関心だったのだ。





母は、
私の学芸会や運動会や参観日に参観する事を、
「自分の義務」から、

完全に切り捨てていた。





1つには、
母自身、子ども時代、
自分の母親に参観して貰ったことがなかった…

ためだろう。




しかし、
自分が母親となった時には、
時代は、

既に新しく変化していた。





周囲の母親の多くが、
参観のために、学校へ出かけていた。




母同様に、
子どもと同じ学校の教員の妻であっても、だ。





そしてそれを、
母は、
ちゃんと知っていた筈だ。




にも関わらず、
母は、
私についての参観を、完全に無視した。





…結局、母は、
「自分が、あの奇形児の母親だと知られる事」を
心から
怖れていたのだろう。





そして、
その恐怖から、逃げた…
のだ。





幼い娘が、どんなに、
母親に参観に来てもらえば嬉しいか。




その娘の心を感じ取り、娘を喜ばせる。




そんな事には、
母には、

全く関心がなかった。





母にとっての最重要事は、


「自分自身が傷つかない事」だった。





娘の気持ちなど、どうでも良かった。





母は、
「奇形児として生まれ、自分に恥を与えた娘」を、
憎んでいた。





善良な気持ちで普通に生んだ自分は、
どこまでも、可哀相な被害者。



勝手に生まれて来たカタワの娘は、
悪魔の如き、加害者。





加害者=悪人である娘の気持ち


など、


被害者=善人である母には、


どうでも良い事…


だった。





母は、
私を愛していなかった。





母は、
ただひたすら、


「あれが、あの奇形児のお母さん」と、
他人から後ろ指を指されて恥をかく…。





その
いたたまれない恥から、
逃げたかった…。





その
身もすくむ恐怖から、
遠ざかりたかった。






…それだけ…だったのだ…。







いつの事だっただろうか…。




母が今よりずっと
頭脳が明晰で正常だった頃、


私は1度、勇をふるって、母に、


「お母さんは、子どもを差別した。
長男だけを可愛がっていた」と、
指摘した事があった。





すると、
母は、
即座にハッキリと断言した。





「いいや。私は、3人を平等に育てた。」





それを聞いた私は、
唖然として、

言葉を失った。






私の婚約者を、初めて両親に会わせた時。


両家が初顔合わせをした時。


父と母が、
まるでブレーキの利かない暴走車のように、
最初から最後まで

無我夢中になって語り尽くしたのは、


私の話題でもなく、
婚約者の話題でもなかった。




その場に居ない
「長男」の話題、


それのみ…だった。






私と次男の教育にも、
両親は、確かに金をかけた。




しかし、それ以上に
両親が夢中になって
金を注ぎ込み続けたのは、

40代後半に至るまで養い続けたのは、


長男」ただ1人である。






それらの数多の圧倒的事実がありながら、


「平等に育てた」と、


母が言い切る根拠は、


何なのか…?






…母の母親は、
文盲であるだけでなく、

非常に粗野な人だった。


知的な要素が一つも感じられない、
動物的な人だった。



人間的な温かみも、
微塵も感じられない人だった。


(あるいは、それは、
私に対してだけだったかも知れないが…。)





彼女は、
子どもの数も多かったし、
その上、とても貧しかった。




だから、
どの子に対しても

心理的ケアをしなかった可能性はある。





だから、母自身、
自分の母親から
心理的ケアをされた経験がなかったため、


「心理的ケア」が親の仕事だとは
思っていなかった可能性がある。




その上、
私の母は、

小学校を終えると、奉公に出された。




そんな母にとって、



「子育て」とは、
「衣食住の世話をしてやる」事



それ以外の何物でもなかったのではないか。







しかし、
ヒトが動物でなく、ヒトである以上、


「衣食住のケア」以外の
心理的なケア」が、



実は、
ヒトの子育てでは、非常に重要だ。







子どもにとって、


親から関心を持たれ、
親から心理的ケア=

温かい関わりを受ける事が


心の正常な発達にとって、
ぜひとも、

必要な事だ。






ところが、母は、
その事を、
おそらく生涯1度も、

理解したことがない。




母は、
自分が私を愛する事が
私の正常な心身の発達において

「必要事」であり、


それが「親の仕事」だとは、
理解したことがない。





自分は、
娘の衣食住を世話してやり、
しかも、

大学まで出してやった。




すなわち、
親としては、
十分過ぎておつりが来るほどの事を
してやった。





自分は、立派な素晴らしい親だ。





たとえ、
専業主婦で時間的余裕はあったにも関わらず、
娘の参観日に1度も行かなかったにしろ、
そんな事は、
全く問題にならない。





長男は、
特別に優秀であり、
特別な親孝行息子だった。




だから、
自分が長男を心から愛したのは、
極めて当然な、

正常な成り行きだ。




誰でもみんな、そうするだろう。





一方、
娘は、カタワ者であり、

何もかも、劣っている。




自分に迷惑しか、かけない。




だから、
娘を愛することなど、
不可能だ。




どんな親であれ、そうだ。





しかし、
自分は、
そんな娘でも殺さなかった。



命を助けてやった。




2人の兄達と同等の衣食住の世話をして、
ちゃんと育ててやった。





自分は親として、
人並み以上に、
務めを立派に果たした。





娘は、
自分に深く感謝をするべきだ。





それなのに、
この娘は、

感謝するどころか、
逆に、文句まで言う。





この娘は本当に、心身共に歪み切っている。



異常なカタワ者だ…。





こんな最悪な娘に、
世話にならなければならない自分は、
実に、

不幸である。




しかし、
最愛の長男に世話をかけ、

迷惑をかけるよりは、
マシと言える。




だから、自分は
我慢するより、仕方がない。





最愛の長男のためと思えば、
自分は、
何でも我慢出来る…。







… … これこそが、
ずっと、一貫して変わらない、
母の心理である…。







****************






今になって、
私は、

初めて気がついた。




10歳の娘が劇の主役に選ばれ、
難役だったにも関わらず、
何のミスもなく、
無事に務め終えた。




まともな親であれば、
何らかの祝福か、
ねぎらいの言葉を掛けて
しかるべきだった…。




しかし、
私の両親は、
ねぎらいも祝福の言葉も、

一切、掛けなかった。



練習中の励ましも、全くなかった。





父は、私に完全に無関心だった。




母は、
「町中に、娘の奇形を知られ、

自分が恥をかかされる」という
恐怖心で、
いっぱいだった。





本当は、母は
私に、劇になど出て欲しくなかった。



主役など、やって欲しくなかった。




しかし、担任が決めた事だ。



母には、どうする事も出来なかった。




しかし、母にとっては、「拷問」だった。





母は、父に向き合い、
その恐怖を、訴えるべきだった。




父は、その母を受け止め、
しっかりと支え、

母の恐怖を軽減すべきだった。




しかし、
母は、そうしなかった。





父も、知らん顔をしていた。





(父は、
私に対してと同様、
母に対しても無関心だった。


父が関心を持ったのは、
自分自身に対してだけだった。



結局、
父の強大すぎる「エゴ」が、
まともな家族関係を

成り立たせなかった。)





そして母は、
自分の恐怖や苛立ちを、
あまりにもストレートに、

当の私に、ぶつけ過ぎた。




「その曲がった鼻のせいで、顔を覚えられた」と、
容赦なく、
強烈な呪いの言葉を、

私に浴びせかけた。





母からの強力な呪いの言葉は、
その時に始まった事ではなかった。





既に、もう何年も続いていた。





そして、
私に関しては、
親は「何につけ、無関心」な事が、
既に「当り前」になっていた…。





親にとっての「面倒」を引き起こした時だけ、
私は親から注目され、
迷惑がられ、非難された。





私は、
親に「迷惑」をかけないよう、
息をひそめて暮らしていた。





「つらい」とか
「イヤだ」とか
「困っている」とか、
親に訴える事は、タブーだった。





親を困らせては、いけなかった。





私は、
何があろうと、
何事もないかのように、

常に、
「普通の表情」を

装っていなければならなかった。





些事よりも、
大きな出来事こそ、
最も隠し通さねばならなかった…。






子ども時代の私は、
かなり暗い気持ちで過ごしていた。






そして、それは、
今にして思えば、
当然至極の成り行きだった…。