すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

母は、「メスの人食い虎」。

【長文です。スルーください】




結局、母は私に、



「生かして置くだけでも、有り難く思え」と
考えていたのだろう…。



…カタワ者のお前なんか、乳を貰えないのが当り前。


なのに、私は乳をやって育ててやった。


まともな子どものように、
ずっと、衣食住の面倒をみてやった。


だから、お前は、恩に着ろ。


命を助けてやったのだから、
せめて、私に奉公しろ。


私の手足になれ。


私の言う通りに動け。


これ以上、私に迷惑かけるな。





…もし、私が何か、
母の気に入らないことをしたり、言ったりすれば、


「やっぱり、死なせれば良かった。



命を助けたのは、間違いだった。」



…そう、後悔していたのだろう…。





そう考えれば、


母の私への態度、母が私に語って来た内容…。



そのすべてに、
説明がつき、ピッタリと辻褄が合う。





しかし、
無力な子どもだった私にとって、

すがれる相手は母だけだった。



だから、子どもの私は、母を慕った。



母の愛を得ようとした。




そして、
母の「価値観」を、

そのまま自分に取り入れ、
自分の価値観とした。



それほど母は、
幼い私にとって、「神」だった。



しかし、
その母の価値観は、
「お前なんか、ダメ人間」だった…。




そのために、
私はずっと、
「私はダメ人間。生きる価値のない人間」という呪縛に

苦しんで来た…。





私は30歳頃、
ほんの3,4カ月、
実家に戻って住んだ事があった。



部屋代を浮かしたいという考えだった。


親との関係を修復したい気持ちも、あった。




しかし、
数年振りに両親をつぶさに観察した私は、


「この人たちとは、大人同士として付き合えない。
そんな価値のない人たちだ」と、

結論した。




そして、私は引っ越した。


2度と帰る気持ちは、なかった。


以来、お正月にも帰省するのをやめた。





しかし、
その10数年後、

私は結婚して子を授かった。




私自身は、
祖父母との縁が薄かった。



4人の祖父母のうち、
母方の祖母1人しか、知らない。


幼児の私を、憎々しげに睨み付けた…だけの祖母だ。



(彼女は、母同様に、
「こんなカタワ者、死ねば良いのに」
と思っていたに違いない。)




母方の祖父は、早くに亡くなったので、知らない。


写真を見たことすら、ない。



父方の祖父母は、長命だった。


しかし、
父が絶縁したため、
父方の祖父母は、

私の存在を知らないまま、死んだ。




成人するまでの私は、
その事も「寂しい事」と捉えていた。






子を持った私は、
「私の都合で、

子から祖父母との接触の機会を奪うのは、
良くない事だろう」
と考えた。



「それは、私の我儘だろう」



私さえ、我慢すれば良いのだ」
と考えた。





それで、子を連れて実家へ出入りした。



夫が、母から飲食をもてなされることを好み、
率先して行きたがったのもあった。



当時の私は、
夫にも自己主張が全く出来ず、
それを拒めなかった。




けれど、
当時の私は、
母と会う度に、具合が悪くなり、

寝込んでいた。




だから本当は、
私は、
実家へ行くべきではなかった。




それなのに、
私は「我慢」を続けた。




今考えると、
私は、

両親の下で長らく「我慢」をし続けていた。



そのため、
自分がいくら辛くても、
「自分」を抑えつけ「我慢」する事が、
自分の生きる「基本姿勢」となってしまっていた。





「自由に生きる」
「自分を大切にする」という事が、
まるで、実行出来ていなかった…。




だから、
私の実家へ行きたがる夫に、
「NO」と言う事が出来なかった。




「私だけがガマンすれば、それで済むのだから」
という考えで、
ガチガチに、
自分を押さえつけていた。




今思えば、
そこまで「自分」を犠牲にする必要はなかった。




いくら、子どものためでも、
2回に1回は、

行かずに済ませれば良かった。




その柔軟性が、
私には、完全に欠けていた…。






そして、数年が経った。



母が81歳で、大腸癌になった。


既に、
父は、記憶力がダメになっていた。


だから、
実家には介護保険の利用が必要だった。



その導入は、私が進めるしかなかった。




そのため、
私は、ますます実家に出入りし、
両親と関わらざるを得なくなった。




最初は、イヤイヤだった。




しかし私は、中途から、


「これだけ、私が頑張っているのだから、
母も、私を有り難く思い、私を認めるかも知れない」


という考えを持ち始めた。




そのため、
私は必要以上に、頑張った。




しかし、
私の行為は、
母を喜ばすどころか、
裏目に出てばかりだった。





1例を挙げれば、こんな事があった。




大腸癌で入院し検査を始めた母に、
私は、
花と花瓶を買って持って行った。




母が花好きだった事と、
だだっ広い4人部屋には、

母ともう1人の患者しかおらず、
ガランとして寂しかったため、

母の目を慰めるのが、目的だった。




しかし、母は喜ばなかった。




それどころか、逆に、怒った。



「花なんか、誰も飾ってない」と。



「誰も」と言っても、
母の他には、
もう1人しかいなかったのだが…。




私は黙って、
花を、
人の通らない廊下の隅っこに移した。




悲しかった。




この時に、
私は、サッサと気づくべきであった。



「私のする事は、何にせよ、母の気に入らない」と。




そして、そもそも、
母は、

私に見舞いに来て欲しくなかったのだ…と。



私に、
他人の前に出て来て欲しくなかったのだ…と。




カタワ者の娘を持っている事を、
母は、他人に知られたくなかったのだ…と。




しかし、
私は、愚かだった。




「母は病気なのだから、
優しくしてやらなくては。


誠心誠意、心を込めれば、
母にも通じる筈だ。」



愚かにも、
そう思い込んでいた。





しかし母は、
「死ねば良いのに」とまで、
私を嫌っていたのだ。




その私が、
何をしようと、
母が喜ぶはずがなかった…。





愚かな私は、
その一番肝心な点に、
盲目だった…。





この同じ時期、
こんな事もあった。




日曜の昼過ぎに母の病室を見舞うと、
母は、
1階の外来の待合室に、私を誘った。




薄暗い待合室のソファに母は座り、
止めどなく喋り始めた。



時計は1時を指していた。



話は、全部、父の悪口だった。



50数年の間、
ひたすらに貯水していたダムが決壊するように、
81歳の母は、

止めどなく語り続けた。




一休止も、なかった。




内容は、
私が幼い頃から母に聞かされていた通りの、
「総ざらえ」だった。




全てが細部にわたって、
もう一度、
隅々まで、
隈無く語られた。




私は、
「母は癌で、助からないかも知れない。
だから、黙って聞いてやるのが親孝行」
と思い、

ひたすら黙って、聞き続けた。




母が休み無く、全てを語り尽くし、
語り終わった時、
時計は、5時を過ぎていた。




母は、せいせいし、サッパリとした表情で、
スッと立ち上がった。




「有り難う」も言わず、「じゃあね」と、
サッサと母は立ち去った。





丸々4時間、
母の語る父の悪口を
休みなく受け止め続け、
聞き続けた私は、
身も心も、
グッタリと疲れ果てていた。




自分が、
ボクサーのサンドバッグになった気がした。





私は、ボロボロになり、
椅子から立ち上がれず、
暗くなった中に、
1人で座り込んでいた。






****************






父は男尊女卑の人であり、
女として生まれた私に、ほぼ無関心だった。



しかし一方で、
父は、
「異性の子ども」である私に、

本能的に「可愛さ」を感じていた。




つまり、
父は、
私を「尊重」はしなかったが、

「猫かわいがり」をしていた。




私の子ども時代、
父は、

2、3回、母に向かって幸せそうに、
こう言ったことがあった。




「女の子、生んでおいてよかったなー。
家の中が明るくなる。」



「女の子が1人居て、良かったなー。」




この父の言葉に対し、
母は、
一度も肯定したことがない。



無言でスルーしていた。



父の言葉は、
嬉しげに弾んでおり、
むしろ母親としては、
同調するのが自然な流れだった。




しかし、
母は一切、同調せずに無言を貫いた。


頷くこともしなかった。


あいまいに、父の言葉をやり過ごした。




その母のリアクションに、
子どもだった私は、疑念を持たずにいた。




しかし、
今、
考えてみると、
母の気持ちは、こうだった。





「いいえ。 この子は、生まれないほうが良かったです。」






********************






今、
考えてみると、
母の冷酷さに、
私は、愕然とする。





母が
「古い価値観に染まった昔の人間」であることを
差し引いても、


貧困の出自故に、
「何にせよ、人と同じでなければならない」という価値観に
凝り固まっていたことを

差し引いても、


私は、
間違いなく、
「母自身が生んだ子ども」だ。





「可愛さ」を感ずることはなかった … 
のだろうか … ??





… おそらく、母が
「私に感じた可愛さ」は、

「ゼロ」ではなかっただろう。





しかし、
母の
「目に入れても痛くない理想の子ども」は、

長男、ただ1人だった。




母にとって、
あまりにも光り輝くその素晴らしい存在の前に、
私は、

「ゴミ」以下だった。





母は、なぜ、
そういう極端な価値観を持っていたのだろうか。





1つ、言えることは、
母は、かなり「愚かな人」だという事だ。





その愚かな子供じみた頭脳では、
「善」か「悪」の極端な2通りしか、

考えられなかったのかも知れない。





単純な子どもレベルの認識では、
「完全な善」と「完全な悪」の間の、
「無数のグラデーション」を、

想像し得なかったのかも知れない…。




人間には、「多面性」がある事。


すなわち、
誰もが、
様々な長所を持つが、
その反面、様々な短所も併せ持つ事。


人間は、
とても複雑な存在であり、
単純な存在では決してないという事。



それが、
母には、
理解出来なかったのかも知れない…。





そして、
父は、
1匹の「人食い虎」だった。




父は、
自分の「我を通す」ために、
長男の人生を乗っ取った。




父は、
その事に対し、
生涯、一顧の反省もしたことがない。





夫婦は、長年添う間に似て来る…と言う。




夫婦のうち、
強い者の価値観が偏っていると、
強い者に弱い者が影響され、
弱い者が、

強い者の偏った価値観に染まってしまう…。




父は、いつも、
自分の極端な価値観 =
「学者こそ唯一無二の最高の職業」に合わない人間を、
片っ端から切って捨て、

軽蔑していた。




父にとって、
人間は、

「○」か「×」か、その2種類しかいなかった。




「学者」だけが、「○」だった。





母も長年、父と暮らすうちに、
その父の価値観を、

取り入れてしまったのだろう。




母には、
父の価値観を批判したり、
否定するだけの能力はなかった。




母は、
威張る父の価値観を肯定し、
そのまま受入れてしまった。




そして、
私に、大きな「×」をつけた。




長男には、
大きな大きな花丸をつけ、
更に星で飾った。





だからこそ、
母も、
40を過ぎても働かず「学者への道」を目指し、
「学生」をやり続ける長男を、
諸手を挙げて賞賛し、

鼻高々に誇り、
狂喜乱舞したのだろう…。






中島敦の「山月記」の主人公は、
「人との交わり」を断ち、

己の狭い世界に没入した挙げ句、
「人食い虎」になった。





父も、同じだ。




父は、自分をエリートと考えていた。



世間の人々を、
自分より劣った馬鹿者と見なし、
世間の人々と交わらず、

世間の人々の生き方を参考にしなかった。




自分の狭い了見のみで、
ひたすら
突き進んで行った。





そして母は、
その父が正しいと
信じ込んでいた。





母も、
「自分たち親と長男は特別な存在」と考え、
親戚とも友人とも交わらず、
世間を無視し、
世間の人々から学ぶ事を、
少しもしなかった。





そして、ひたすら
父に付き従い、
世間から孤立した生き方を突き進んで行った。





その結果、
母も、
邪悪な人物となった。





私を、
「生かして置くべきでない」カタワ者として
切り捨てた。


「死んでしまえ」と、
踏みにじった。



私の人生を破壊した。






母は、
1匹の人食い虎の妻たるにふさわしい、
「メスの人食い虎」として生きた…のだ。