すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

母は私に死んで欲しかった

長文過ぎますので、スルーください




母にとって、誕生した私は「災厄」だった。





母は、次男を妊娠中、長男の手を引き、
父に従って、

遠い遠い父の実家へ移り住んだ。




移住する前は、
父と長男との寂しい3人暮らしだった。




しかし、
寺である父の実家には、
大勢の人が出入りし、賑やかだった。



父の父親が住職で、父の母親は産婆をしていた。


産婆の助手さんも、住み込んでいた。


近所に、親戚知人も多かった。




それらの誰かしらが、代わる代わる、
幼い長男と次男の面倒を見てくれた。




また、父の父親がとても優しい人で、
孫達と母を可愛がってくれた。




母は、
この父の実家で過ごした1、2年を回想する時、
とても幸せそうな表情になる。




父との結婚生活の中で、
唯一、
楽しく過ごせた時期だったらしい。





ところが、
父と、父の母親との間に、

決定的な衝突が起きた。



そして父は、
再び実家を去った。



そして、母はまた、
夫と子ども2人だけの孤立した核家族の生活に戻った。




夫である父は、
相変わらず非常識なことばかりしでかし、
母を苦しめ続けていた。




その苦しい生活の中に、
更に、手のかかる赤ん坊が加わった。




それが、私だ。





私の誕生を前に、
母の母親(私の祖母)が、
遠方から手伝いに来た。




ところが、
その私の祖母は、
生まれた私の顔を見るなり、
ショックで寝込んでしまった。




私の顔は、
わずかだったが、
鼻が曲がり、

唇が裂けていた。




「口唇裂」という奇形だった。




おまけに、誕生直後は、
なぜか片目が真っ赤だった。





産婆をしていた父の母親と同居していた当時、
母は、
その姑から、色んな話を聞かされた。




その中の一つの話が、



「昔は、カタワ者(奇形児)が産まれると、
『乳をやるな』と母親に言って、
赤ん坊に乳を飲ませず、

そのまま死なせたもんだ」
だった。



私の顔を見た母は、
当然、その話を思い出した。





…しかし、
母は、私に乳を与えた。




おそらく、
母の中には、大きな葛藤があった…。




けれど母は、
乳を与え続けた。




おそらく、
母には、

私を殺す勇気がなかったのだろう。





そうして、
私は1歳になった。




1歳になったばかりのある夜、
私は、高熱を出した。



息が苦しげだった。




父が、医者へ連れて行くと言い出し、
自分が負ぶって医者へ行った。




それで、私は助かった。





この何気ない、よくあるエピソードを、
数年前、

母は、私に「大きな出来事」として、
真剣な表情で語った。




その母の顔は、苦痛にゆがんでいた。


母の顔に、一瞬だが、激しい憎悪がよぎった。


悪魔にも似た、醜い表情だった。




私は、
その一瞬の強烈な醜い憎悪の表情によって、
当時の母の心理を理解してしまった。




母は、
私の死を、心の底で願っていたのだ…と。




そしてその時、
父が「医者へ連れて行く」と言い出さなければ、
母自身は、

私を放置するつもりだった…。




そして
私が病に負け、
そのまま命を落とすことを、
母は、

心の底で願っていた…。




しかし、
父の行動によって、

私は、
助かってしまった…。





母には、
不本意な結果だった…。





そして、
間もなく、
別な不幸が持ち上がった。




そして母は、
更に、私に苦しめられる事となった。





1歳になった私は、
つかまり立ちを始め、やがて歩き始めた。



ところが、2.3歩歩くと、すぐに転んでしまう。



母は、仕方なく、医者へ連れて行った。



「先天性股関節亜脱臼」と、診断された。



放置は出来ず、
通院や入院治療をせざるを得なくなった。





2人の兄達は、5歳と3歳。


まだまだ手のかかる盛りだった。



その2人の手を引き、
私を負ぶって通院するのが、
母にとって、

生涯最大の苦労となった…。





それに加えて、父は、
「協力的な夫」どころか、
次々にトラブルばかり引き起こし、
母を困らせてばかりの「困った夫」だった。





この大変な苦闘の時期、
母は、
私を背負って医者へ連れて行き私の命を救ってしまった父を

呪った…
に違いなかった…。





しかしそれでも、
私は成長し、大きくなって行った。




3歳頃までは、ギプスを使用していたらしい。



しかし、その後は、普通に歩けるようになった。




僻地暮らしの上、貧乏だったため、
幼稚園には行かなかった。



しかし、小学校入学が近づいた。




すると、母は再び、
クヨクヨと悩み始めた。




母は、
私の顔を、
「人前には出せない顔」と
思っていたからだ。




入学式を前に、
母は私に、こう命じた。




「写真を撮る時は、
首を横に曲げなさい。
そうすれば、

曲がった鼻が目立たないから。」




命じられた私は、その通りにした。




「不自然に首を曲げた、カチコチの6歳の私」が、
今も、

小さな白黒写真の中に残っている。





その後も母は、
私の顔を見る度に、
暗い吐息をついてばかりいた。




そして、
何度も何度も何度も、
同じセリフを、私に繰り返し続けた。




「その鼻、手術しなくちゃね。」




子どもだった私は、
大好きな母の顔が、

私の顔を凝視する度に、
暗く沈むのが辛かった。




そして、
「私の顔は、人前には出て行けない顔」
「私の顔は、醜い顔」



という固定観念が、
私の心の奥底に、
強固に形成されて行った。




また、
母の吐息や言葉には、
「お前の顔は、このままではお嫁に行けない顔」
「手術しないと、ダメな顔」
という

強烈なメッセージも含まれていた。




当時、
母が私に、
ため息交じりに告げた言葉の中には
「女と塩した物は余らない」
という言葉もあった。




つまり、
母は、
「奇形の娘が売れ残って嫁に行けない」未来を、

最大に怖れていた。



だから、
「塩蔵食品と同様、女は、売れ残らないものだ。
だから、こんな顔でも大丈夫、余らない」と、


私と自分自身に、
言い聞かせていたのだった。




無防備な私の心は
暗くなる一方だった。






客観的に見て、
私の奇形は、「軽度」だった。




一瞥では、全く気づかれない程度だった。




友達から何か言われたことも、わずか1度しかない。



奇形が原因のイジメも、全く受けなかった。




だから母が、
暗い嘆息や
「手術しなくちゃ」という言葉を
私に向かって吐き出し続けなければ、
私は、

おそらく、
何の劣等感も持たずに成長したはずだ。





しかし、
母は、
些細な欠陥を針小棒大に受取り、
気に病み過ぎた。




そして、
子どもだった私に、
ストレートにそれをぶつけ過ぎた。





そういう吐息や言葉を、
長年に渡って母親からぶつけられると、
子どもがどんな心理になるか?



…母は、全く考えなかった。




母は、
ひたすら、
「奇形の娘を持った自分は、とても不運で、不幸」と、

思い込んでいた。




「奇形の本人が、どう思うか?」については、
母は、1度も考えなかった。




これが、
悲しいかな、
母の最大の特徴である。




過去60数年にわたり、
私の母は、
1度も「娘の気持ちになって考えたこと」がない。





私自身は、
20数年前、息子を産み、母親になった。



その後しばらくして、
私は理解した。



「子育てとは、子どもの気持ちになって考えること。
これが、とても大切」と。





しかし、
私の母は、
私の気持ちになってみた事は、
只の1度もない。




私の立場になって物を考えたことがない。





そして、これこそが、
「不幸の源」だった…と思う…。






私が高校生になると、
母の願望「娘に手術を受けさせる」は、

ますます切迫した。




高1の私は、
歓楽街にある「美容整形外科」に行かされ、
最初の手術を受けた。




今思えば、
「水商売の女性相手の美容外科」だった。




入院ではなく、無謀にも日帰り手術だった。


帰宅後、かなりの痛みと出血があった。


それが引くと、かなりの腫れがあった。




酷い身体的苦痛と共に、
私の心は、
身体以上に大きく傷つき、
激しく痛んだ。





自意識の強い思春期の女の子なのに、
「顔」を、医師から「患部」として

凝視されるのだ。




その凝視される時間も、
自分が「患部を抱える惨めな存在だと認識する事」も、
両方が耐え難く、

辛かった。




しかも、
そんなにも大きな代償を払ったにもかかわらず、
手術の「結果」は、

以前と大して変わらなかった。




私は、失望した。




そして、
母の願望も収束せず、続いた。





私が成人後、
大学病院に「形成外科」が新設された。




細かい経緯はもう忘れたが、
私は、そこで2度、手術を受けた。




前回同様、
「顔」を

「患部」=「手術で変えなければならない部位」として、
医師から凝視されることが、

とてつもない屈辱だった。



「前回の美容外科での手術は、しない方が良かったです」
とも指摘され、
それにも、グサッと傷ついた。





しかし、当時の私に、
母が切望する「治療」を
拒む勇気は、なかった。





けれど、
3度の「顔」の手術を経て、

私の中に、
こうした強烈な苦痛を強いる「母への反発心」が

生じ始めた。




「私を理解しない母への憎しみ」が、
ハッキリと芽吹き始めた。




「母は結局、
私のことなんか、考えてくれてない。
自分が満足したいだけ」
と、

私は思った。




「母を満足させるために、
私が

こんなにも心身共に傷付かなくてはならないなんて、
理不尽過ぎる」
と、

思った。





…その感情が、
数年後に、
大きな事件へと発展して行ったのだった…。




(それについては、語れるかどうか、今は分からない。)







最新の医学では、
「先天性股関節脱臼」は、

「どうやら先天性ではなく、後天的なものらしい」
と考えられている。




それは、

「暑い国の、赤ん坊にオムツをしない地域では、

発生しない病気。


逆に、寒冷地で、
赤ん坊をオムツや衣服でグルグル巻きにする地域で多発する」


と、判明しているからだ。




つまり、
赤ん坊(特に男児よりも女児)の股関節は、

柔らかく弱く、可変性があり、
外部からの締め付けにより、

比較的容易に脱臼してしまう…
らしい。





私の母は、
私の「股関節亜脱臼」を「先天性」。


すなわち、
「私本人のせい」だと
受け取っていた。





しかし、
事実は、
「母自身の着せたオムツや衣服の圧力により、

後天的に発生した脱臼」
だったのである。





また、
1歳の時の治療により、

「完治」したと思われていた「脱臼」だったが、
実際は、そうではなかった。





成人した私は、
ある日突然、股関節の痛みに襲われた。




そして結局、
股関節の手術入院を計5回、

今までに経験した。




「身体障害者」ともなり、
辛い痛みやさまざまな制約を、余儀なくされた。




私の人生全体が、
ゆがめられ、
大きく変わった。





しかし、
母自身は、
「顔もカタワ、脚もカタワの娘のせいで、

自分が酷い苦労をさせられた」と
思い込んでいる…。





そして、その愚痴を、
私ばかりか、
長兄にまで垂れ流し続けた。





その母の私に対する愚痴・恨み辛みを、
長年、
聞かされ続けた長兄は、
更に、
妄想をふくらませた。





「母の生涯は、妹に奉仕した生涯」
という一大妄想を、
次兄に語るまでになった。




彼にとって、この妄想は、



「妹は母に、
心身共に巨大な負担をかけ続け、
母の生涯全体を捧げさせた。



だから、妹は、老母の世話をするのが当然だ。


本来、妹は、自らの手で母を介護すべきだ。


しかし、狡い妹はサボって、ホームに預けている。


そのために、母が残すべき預金が減ってゆく。


自分が貰うべき母の遺産が減る。


悪いのは、すべて、妹だ…」


という考えに、発展している。





長年、親孝行息子を装って、
1,000万円もの巨額の仕送りを

30代~40代に親から受けながら、
いざとなると、

一切、知らん顔を決め込み、
老親の世話を、全て妹に丸投げした…。





この醜い自分の行動を正当化するためには、
そういう妄想が、

是非とも
必要なのだろう…。







「口唇裂」の原因は、

現代医学でも解明されていないらしい。




母が昔に言っていたことは、
「アンタを妊娠中に、除雪していて屋根から落ちた。

妊娠中に風邪薬も飲んだ。」



「屋根から落ちた」のは、
私の誕生時期から考えると、

妊娠後期なので、関係がない。



しかし、「風邪薬」には、
昔なので、

催奇性成分が含まれていた可能性がある。



服用時期が妊娠初期だったならば、
原因となった可能性がある。




しかし、
母の私に対する態度には、
「こんな顔に産んでごめんね」という要素は、

微塵もなかった。




逆に、母は、
「アンタがこんな顔で産まれて来て、
私は大迷惑を蒙った」という
「被害者」の態度に終始していた。




あくまでも、
私の方が、
母に災厄をもたらした「加害者」だった。





やはり、母が、
産婆だった姑(私の祖母)から聞かされた話、


「昔は、カタワ者には、乳をやらずに死なせていた」に、
母は、

大きく影響されたのかも知れない。



「こんな子は生かしておかず、死なせるべき」
という考えが、
長らく、

母の心の奥底にあったのだろう。





そして、そもそも、
母は、何につけ、
「皆と同じが、一番良い」と考える人である。




何事であれ、


「皆と同じでなければならない」


「周囲の人と違うのは、悪いこと」




これが、母の
「行動基準」「判断基準」である。




その母には、
「皆と違う顔を持った我が子」は、

絶対に許せない存在だったのだろう…。






数年前に、
母が骨折でリハビリ入院した時、
母が私に言った言葉が私は忘れられない。




「ここでは、
みんな、黒っぽい服を着ている。
黒っぽい服を買ってきて頂戴。」



「お風呂場で見たら、
ここでは、
みんなグレーのパンツをはいている。
だから私にも、
グレーのパンツを買って来て欲しい。」




聞いた私は呆れ、
その言葉は聞き流した。




しかし、
母の言う「みんな」とは、
いったい何人を指すのか?


その後、
私は注意して観察した。



すると、母は、
たった「2人」でも、「みんな」と言っていたのだった…。








産まれた私の顔を見た途端、

寝込んでしまった母の母(私の祖母)の態度も、
母には、大きく影響しただろう。




私が5、6歳頃、
この祖母は、我が家に1週間ほど滞在した。



その間、祖母は常に、
私の顔を怖ろしい形相で睨みつけた。



そして、険しい顔で、
あれこれと私を叱りつけた。


「お前は、何の手伝いもしていない」と叱られた。



しかし、私からすると、
母から何も教えられていないので、手伝えないのだった。



私は、子ども心に、
祖母を滅茶苦茶な人だと思った。



しかし、その後すぐに、祖母が文盲だと知った。


それで、私は、
「字も読めない人だから、考え方も滅茶苦茶なのかな」と
納得した。



そして、
「字なんかカンタンだから、私が教えて上げたい」とも思った。


(当時の私は、ひらがなを読めた。)



しかし、
常に険しい顔しか私に向けない祖母は、
私にはとても怖ろしく、

話しかける事は出来なかった。



そうして、祖母は去った。




今、思えば、
祖母はやはり、
「こんなカタワ者の孫なんか、要らん存在だ。
死ねば良いのに…」
と思っていたのだろう…。




とても気性が荒く、
いかにも協調性・包容力の乏しそうな人だった…。







※※
現在の世の中でも、
私のような顔の奇形の赤ん坊が産まれた時、
激しい拒絶反応を示し、

全く受入れられない親が存在するそうだ。




まして、私が生まれたのは、60数年も昔である。




だから、
私の死を心の中で願った母の心理も、
決して特殊なものではなかったのだろう。





今なら、おそらく、
奇形児を持ってしまった親を、

カウンセラーがサポートするのかも知れない。




そして、
奇形児本人にも、
何かしらの心理的サポートがあるのかも知れない。







※※※
父は、私の「奇形」を気にしていない様子だった。


しかし、父には、
母の「過剰な心配」を受け止め、

サポートするという姿勢がまったくなかった。




そもそも父は、「女の子」に、極端に無関心だった。


父は「男尊女卑」の人だったからだ。




(父は、長男・次男には、張り切って凝った名前を付けた。


しかし、
女の私には知らん顔を決め込み、名付けなかった。



その結果、
無教養な母は、当時の人気女優から名前をとった。


また、
私には、赤ん坊時代の写真が1枚もない。


兄達には、ある。


私の最古の写真は、4歳近い写真だ。)





父が、
もっと母に対し温かく接し、
母の悩みを受け止め、共に真剣に考え、
母を支えてくれる人であったなら、
母の私への態度も、

変わっていただろう。





しかし母は、
どこまでも孤立し、
たった1人で悩み続けていた







※※※※
母は8年前、

突然の圧迫骨折で、
リハビリ病院に3ヶ月入院した。



その時、
私は母の洗濯物を持って、
数日おきに往復3時間の道のりを通った。




当時の病室内は、
今のようにカーテンを引き回していなかった。




4人部屋だったが、
みんながまるで1家族のように、

高齢の母を気遣い、優しく話しかけ、
何かと世話をしてくれていた。




そして、
私が顔を出す度に、
「○○さん(母の名前)、いいね!いいね!

娘さんがいてくれていいね!」と
みんなが笑顔で母に言った。





そんなある日、
母は、私を見て、唐突に涙を流しながら、

こう言った。




「アンタがいてくれて良かった。
アンタが生きていてくれて良かった。」




この時は、
私はまだ、
「私が1歳で高熱を出し、
父が医者へ連れて行くと言い出し、
夜中に負ぶって連れて行ったために助かった」話を

母から聞かされていなかった。




だから、
なぜ母が、
「生きていて良かった」と言うのか?
解らなかった。




しかし、
何か私が聞かされていない危機的エピソードがあるのだな…
という感じは受けた。




そして、
果たして数年後、
母は、
「父が負ぶって連れて行ったために助かった」話を、

私に、怖ろしい形相で語った。



その時、
私の中で、
全てが繋がって理解された。





いずれにせよ、母の
「アンタがいてくれて良かった」という気持ちは、

極めて一過性のものだった。



病室のみんなに、
いわば洗脳されていただけだった。



母本人の心の中から、
自発的に芽生えたものではなかった。




そもそも、数ヶ月前には、
母は
長男から
「老人ホームに入れば1年で死ぬ」という嘘を吹き込まれて信じ、
老人ホームへ入れようとした私を、

激しく憎悪し、全力で罵ったのである。




娘の言うとおりにしていたら、娘に殺される!


娘は、やっぱり、とんでもない人間だ!


身体もカタワ者だが、
頭の中身も、やっぱり酷い人間だ!



…母は、そう心から思っていたのである…。





そんな母に、
私への感謝など、
微塵も芽生える筈がなかった。







…あれから8年が経った。




私の存在価値を認める気持ちは、
母には、
やはり2度と復活していない。





しかし、
そもそも母は、
誕生直後から私の死を願い、

その後も長く、
私の存在を呪い続けていたのだ。




今も、
母が私を嫌い続けているのは、
当然の成り行きなのである…。