すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

ここにいてもいい

最近、ビデオ視聴にハマっている。



「日々是好日」→「あん」→「歩いても歩いても」→「海街diary」。


「歩いても歩いても」は、2回も見てしまった。




「海街diary」では、1人だけ腹違いの4女が何度も言う。


「私、ここにいてもいいのかな?」


切ない問いだ。



人は、誰しも、自分から望んで生まれてきてはいない。


親が生んだ。


存在させたのは、親。


本人は、存在させられたのだ。



それは、誰もが同じ。



だからこそ、逆に、誰もが、生まれながらにして、堂々と、生きる権利を持つ。




どんなに無力で、どんなに幼く、どんなに周囲の助けが必要でも、
誰もが、当然に「生きる権利」を持つ。


どんな幼子も、平等だ。


どんな幼子にも、侵してはならない「尊厳」がある。



…しかし、ハッと気づいた。


幼少から成人に至るまで、私に、母からずっと送られていた有形無形のメッセージ。


それは、
「アンタは、本来ここにいるべきじゃない。アンタは、間違って生まれてきた。だから、私は迷惑している。アンタは、その顔の奇形を直すまで、人並みじゃない。人様に顔向け出来ない、恥ずかしい、人間以下の存在だ。一番恥ずかしくて困ってるのは、生んだ私だ。私は大迷惑だ!どうしてくれるんだ!」
だったなあ…と…。


だから、私はずっと、生きるのが辛かったんだなあ…と、
今にして解る。




「歩いても歩いても」では、主人公の阿部寛が、怒る。


「人の人生を、比べるな!医者がそんなに偉いのかよ。広告だって立派な仕事だろ」


この一家の父親は、「医者が最高」という価値観で、医者となった長男を賛美し、医者にならなかった次男を侮蔑し、無視している。


母親は、夫に愛されず、代わりに長男を溺愛していた。次男を嫌っているわけではないが、彼女にとって、長男は「別格」だった。その長男は、若くして死んだ。だから、もはや長男は「神格化」されている。


そんな両親だから、次男は会うのが苦痛なのだ。



私の父も、特殊な価値観で人の人生を比べ、差別していた…。


阿部寛の父親と同様、自分を継いでくれる長男を賛美し、そうでない私を侮蔑した。



自分を侮蔑する相手に会えば、誰だって苦痛に決まっている…。当然だ。



私は、それに、もっと早く気づくべきだった。


それなのに、
「親は子を愛している」という固定観念に支配され、
「親孝行は義務だ」と思い込んでいた、若くて、バカだった私…。



是枝裕和氏は、元々、ドキュメンタリー出身だそうだ。


だから、すべてを平等に淡々と撮る。


大きな葛藤や対立も、何気ないことも、サラサラと並列的に撮る。


ドラマを、殊更にドラマチックに盛り上げて撮らない。


それが、私には、やや物足りない。


しかし、商業映画としては、その方が良いのか? …



「歩いても歩いても」のレビューを読むと、「退屈極まりない!☆1つ」と評していた人が何人かいたのには、驚いた。


こういう人って、親から愛されて育った人なのか?


それとも、心理的葛藤を無視できる強い人なのか?



是枝裕和氏自身は、姉が2人だったらしい。


そして、母親が映画好きで、子どもだった是枝氏はいつも母親に連れられて映画館に同行していたらしい。



やっぱり、生育環境って大きいなあ。


うちの息子も、映画館へ連れてけば良かった…。


しかし、もう、遅い! (´。`)



夫に、
「ワタシ、ここにいてもいいの?」と、尋ねてみた。


夫は、
「もちろんだ!いなきゃ駄目だ!」と、言ってくれた。


私が
「私がご飯作るからでしょ?」と聞くと、


夫は
「それを言うな!」と、怒り始めた。


図星を指されると、夫は、いつも、怒り始める…。  (^_^😉