すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

母の緊急入院先へ平然と現れた長兄

長文です!スルーください



8年前、
長兄の詭計(奇計でもあった)による妨害により、
私が計画した母の老人ホーム入居は、

中途で突然に頓挫してしまった。



その結果、
半年後もまだ家に留まり、
独居を続けていた90歳の母は、
ある日重い物を持ち、

激烈な腰椎圧迫骨折を起こした。



激痛の苦痛を味わった上、
リハビリ病院での困難な3ヶ月に耐え、
退院後も生涯、

「歩行器使用」が必要な身体となってしまった…。



あの時、私の計画した通りに、
スムーズに老人ホーム入居が実現していたならば、
母の、あの突然の腰椎圧迫骨折は、起きなかったはずだ。




たとえ、母の骨がボロボロスカスカだったとしても、
介護付き老人ホームでは、

重い新聞紙の束など、持ち上げる事はない。



仕事らしい仕事は、すべて介護スタッフが代行してくれる。



母が今、ホームでやっている「仕事」は、
自分の下着を、チョコチョコと洗面所で手洗いする。


インスタントコーヒーをポットのお湯で飲み、
そのカップを洗面所で洗う。


それだけだ。



それ以外の洗濯・炊事・掃除、
洗濯物の運搬・洗濯物干し・電気ポットへの水の補充などは、
すべて、介護スタッフさんがやってくれる。


母が大量に持ち込み、収拾のつかない衣類の整理も、
スタッフさんが手伝ってくれる。


ベッドのシーツ替えも、もちろん、スタッフさん。




だから母は、
あんなにも急激で激烈な骨折は起こさずに済んだはずだ。




それを思うと、
長兄は、何と、親不孝な事をしでかしたのだろうか…と思う。




しかし、
長男に完全に惚れ込んでいる母は、長男を一切責めない。


(私の計画通り進んでいたら、怪我せずに済んだことにも、
母は気づいていないのだろう)




それを良いことに、長兄は、何ひとつ反省していない。



謝罪もしていない。





母の緊急入院後、2.3日経って突然、長兄が病室へ現れた。



その態度は、平然としていた。


平然過ぎて、逆に異様だった。



ちょっと話をした後、ベッドサイドに座ったまま、
長兄は、いきなり私にこう言った。



「お母さんは、アンタが見れば良い。
○子さん (長兄の妻) は、そうしたから。」



私は、驚いて息を飲んだ。


あまりにも、唐突な話だった。



そして、そもそも、母のベッドサイドで、
世間話のように気軽にする話ではなかった。




しかし私は、呆れながらも、すぐに言い返した。


「○子さんは、子どももいないし、病気でもない。
だから、出来た。


だけど私は、子どももいるし、病気だから、無理。」



長兄も、すぐに言い返した。


「じゃあ、ヘルパーに来てもらえば良い。


アンタは家にいて、座って電話で指示をしていれば、
それだけで良い。」




私は、呆れながら反論した。



「ヘルパーさんは、いちいちすべて細かいことも聞いてくる。


すべて、こちらの指示を仰いでから行動する。


ヘルパーさんは、絶対に自分の独断で勝手には行動しない。


だから、電話だけでは絶対、無理。


結局、私が実際に見に行かなければならなくなる。


だから、無理。


今までの経験で、分かってます。


第一、ヘルパーさんだけで100%世話できるわけじゃない。


必ず、私が行って世話することになる。



だから、無理。」




すると、長兄は黙った。





それから私は用で、病室を出たり入ったりした。


長兄はその間、母と仲睦まじく話をしていた。


長兄と話している時の母は、とても幸せそうだった。





母との話が一段落して、長兄は母の部屋から出て、
食堂へ移動した。


私も、ついて行った。


椅子に向かい合って座った。




母のいない場で、私の顔を見ずに横を向き、
最初に長兄が私に放った言葉は、
私の度肝を抜いた。



アレは、もう、相当オカシイなあ!!



長兄の表情は、
さっきまでベッドサイドで母に見せていた

「いかにも親孝行息子」然とした態度とは
真逆だった。


明らかに母を蔑んだ、冷酷な表情だった。



「アレ」…というのは、母。


「オカシイ」…というのは、「ボケかかっている」という意味。




長兄の言葉の調子にも表情にも、
今、身動きする度に激痛に苦しんでいる母への同情の

ひとかけらも、なかった。



私は、その冷酷さに唖然として言葉を失った。


衝撃を受けた。




続いて、長兄は、こう言った。


「入院するのに、
アンタが洗面器とか、新しく買ったんだってなあ。


買わなくても家にあるのに、
アンタが無駄遣いをしたって、怒ってたぞ。


でもまあ、洗面器なんか、安い物だからな。


良いんだけどな。」



…母の危機を知ってすぐ、焦って駆けつけ、母を病院へ運んだ。


入院を拒絶する医師に無理矢理に頼み込み、入院させた。


人に見られても恥ずかしくない入院用品を急ぎ買い調えた。


母の家に行き、
乱雑に混乱した家の中から母の衣服や身の回り品を
長い時間かかってようやく探し出し、

病室へ運んだ…。



全部、母のために、
私と夫が2人がかりで、混乱しながら焦りながら、
必死に夢中にやった努力だった…。



それなのに、
私と夫を、てんやわんやにさせた張本人である母が、
何日も後からゆったりと来た長兄に、

私が席を外したわずかな隙に、
ささいな事を、さも重大事のように告げ口していた…。



その事実が、私の胸に、鋭く深く突き刺さった…。



ああ…こういう風に、
母はいつも、私の悪口を長男に向かって訴えるんだ…。


長男は「そうだね、そうだね」と、母に同調するんだ…。


それが、一瞬にして、私に理解出来た。



共通の敵を持てば、お互いの団結が強まる。


母と長兄、この2人にとって、
「共通の敵」とは、他ならぬ「私」…。


私は、その時、そう思い知った。


胸が、鋭く痛んだ。




そもそも、「洗面器」は、
母の家のどこにあるか、見当たらなかった。


焦っていた私が仕舞い場所を思い出せず、
(後から思い出した)、
それに、母の持ち物は何でもギトギトに汚れているので、
「きっと洗面器も汚れていて汚れを落とすのが大変だろう。
ならば新品を買った方が早い」と、

私が判断して買った物だ。



しかし、私は、それを兄に言わず、黙っていた。



そんな些事を話すより、
もっと重要な問題について話すべきだと、
第一に私は思っていた。



第二に、
家族の中で、こんな風に

「全くの誤解やウソ」を元に「非難攻撃」されることに
私は慣れ切っていた。


そしてその度に、私は黙ってそれをやり過ごしてきた。


誤解やウソによる非難攻撃の発信元は、大抵、父だった。


しかし、我が家の中では父は絶大な権力を持ち、
父の発言は、母も長兄も、うのみにしていた。



一方、家族の中で、
私は「卑小・愚か」のレッテルを貼られていた。


私は孤立していた。


だから、私一人で覆すことは無理だった。


もし抗弁すれば、聞いて貰えるどころか、
多勢に無勢で、更に非難攻撃された。



今回の発信元は父でなく、母だった。


しかし、私には同じだった。


今や、母と長兄は「正義の連合軍」となり、
孤立した「私=悪」を攻撃していたからだ。




そしてその時、
私の心を、何より大きく占めていたのは、
母の哀れさだった。



最愛の長男から、かくも手ひどく裏切られ、
しかし、何も知らずに長男を信頼し、
深く愛している母が、哀れでならなか
った。



私は、平静を装った。


衝撃を受けつつも、
私には冷静に長兄を観察することが必要だったからだ。




そして落ち着いて考えてみると、
兄は、

「ホーム入居を阻止した詭計」「自分の大ウソ」について、
私に、何の謝罪もしなかった。



今回の突発的な入院騒動についても、

私をねぎらいもせず、平然としていた。



まるで、ひとつも問題は起こらなかったかのような、
平然とした兄の態度に、
私は、何よりも驚愕し、怒ることも忘れていた。




今思えば、あの時、長兄は私に、
「なぜ、あんな詭計を企み、実行に移したか」
その理由を、率直に話すべきだった。



自分がウソをついて母を騙したことにより、
母が半年長く家に留まり、

その結果、母がかくも重い怪我を負ってしまったことを
深く反省し、

そして悔い改めるべきだった。



そして、なぜ自分が、
母を「老人ホームへ入れず、家に置いておきたいのか」
その理由を、率直に話すべきだった。




そうすれば、
その後の一連のゴタゴタ・もめ事は、

すべて何も、起きなかったはずだ。



(その後、最終的に、私は弁護士に依頼することによって、
長兄と絶縁せざるを得なかった。)




しかし、長兄は、何も言わなかった。




数日後には、母はリハビリ病院へ転院する予定だった。


母は、まだ激痛のため、
トイレへ歩くのも本当にようやく、の状態だった。



これから、90歳の母がどうなって行くのか?


誰にも、解らなかった。




とりあえず、
長兄が私に

「アンタがやれ」と言った「自宅介護」を、
私は「出来ない」と、明確に断った。



だから、長兄は、
「母の気に入ったホームへ入居させる」という私の考えに

反対するならば、
その自分の考えを、その場で率直に私に話すべきだった。



ところが、兄は言わなかった。



長兄は結局、何一つ言わないまま、サッサと帰って行った。



この時点では、まだ母の今後が不確実だった。


だから長兄も、今後の展望を持てず、
一時、全てを棚上げしたのかも知れない…。




しかし、それにしても、お互いの「話し合い」
「意思疎通」が、あまりにも不足だった。




特に、長兄は、
「私には伏せた欲望」を内心に隠し持っていたのだから、
それを解決するべく、
私と話し合うべきだった…。



しかし、彼は、そうしなかった…。



(おそらく、長兄は、今後も
頭の良い自分の操作により、ボケ母とバカ妹を自在に操れる…
と、タカをくくっていたのだろうと思う)




あとに残された私は、
母がやはり、

長兄に盲目的に惚れ込み信じ切っていること、


入院してもなお、
私を「敵視」し、
「馬鹿者・役立たず」扱いしていることに、
大きなショックを受けていた。




母にとっての私は、「下女」。


母のために、粉骨砕身するのが、当り前の存在。


ところが、この下女は、「大バカ者の役立たず」なのだった。


それに、母は腹が立つのだった。




しかし、
私が何から何まで手助けしなければ、何一つ母は前進出来ない。


それだけは、ハッキリしていた。




そして当時の私は、
激痛に苦しむ母が可哀相でならなかった。



だから、自分に出来るだけの事をしてやらねば…


そう、私は心に誓っていた。





今思えば、当時の私は、母との境界線が、なかった。


母のために自分が完全に犠牲になる事、


自分が文字通り「母の手足」となる事が、「当然」だ、
と思っていた。




つまり、
母に否定されながらも、
母に強く支配されていたのだった…。


幼い頃と、まるで同じだった。




母は、
私が幼い時からずっと、
常に私を否定し、私を支配して来た。




そして私は、まだ、その母に、


気に入られたい
喜ばせたい
愛されたい


私が頑張って母を助ければ、
母もきっと私を認めてくれるはず


母が私を認めないのは
私の努力がまだ不足だから



…そう思っていた…。




自分が母に支配され隷属している事実を、
自覚出来ていなかった…。





この「被支配・隷属」を、やっと自覚し、
そこから脱却できつつあるのは、
ようやく、最近のことだ。





いくら、私が母に誠心誠意、尽くそうとも、
母が私を愛することは
生涯、絶対にない。




母は、私とは、全く別人格。




私が母を理解しているほどに
母が私を理解することは、
今後も、絶対にない。



私が過去に母を愛したほどに
母が私を愛することは
今後も絶対にない。



私の愛は、ムダ。



決して報われない。




母からの愛を求めている限り、
私は幸福になれない。



私は、最近、ようやく、
それを理解した。






長兄の妻は、47歳まで、親がかりだった。


長兄と妻は、34歳で結婚したが、


長兄は学生・無職。


妻も無職だった。


長兄も妻も、それぞれが親からの仕送りで生活していた。


2人のサイフは、ずっと別。


長兄と結婚後も、
妻は留学中の長兄と暮らすより、
日本の老親と暮らす時間の方が長かった。


病気がちの老親の世話をしていた。


しかし、自らは働かず、親から金をもらい、
時々、長兄の住む外国を訪ねていた。


妻には、兄が2人いた。


しかし、47歳まで経済的に親の世話になり、
親と同居していた彼女が親の介護をするのは、
彼女の兄達から見ても、当然の成り行きだっただろう。



その点が、私とは、全く異なる。



それなのに、
長兄は勝手に、自分の妻と私を同一視して、
「○子さんが親を介護したのだから、妹もそうすべき」

と考えていた。



その事が、私には、理解不能だった。



本当は、
長兄こそが、

「47歳まで親の仕送りを受けて生活していた」のだから、
親の介護をすべきだった、と思う。



事実、
父は「ワシは長男の世話になる」と公言していた。


そう思っていたからこそ、
父は12年間で1,000万円もの大金を仕送りしたのだろう。



母も、
長男の妻の言葉
「私たちがお世話します」が実現することを、
もちろん待ち望んでいたと思う。




ところが、帰国した長兄は、
老親から遠く離れた地に住んだ。



その上、
何もかも一切、知らん顔を決め込んで、逃げた…。