すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

8年前の母の緊急入院までの日々

長文です!


9年前、
私は、母の独居が限界だ、と判断した。

そして、

母にふさわしい「介護付き老人ホーム」を、
あれこれと探した。



何とか、
費用的にも設備的にも、
適当なホームを見つけることが出来た。



嫌がる母の説得を、何度も重ねた。


これが、一番困難だった。


しかし、ついに成功し、母を見学に連れて行った。




1軒目は、母は、全く気に入らなかった。


しかし、2軒目を、母はかなり気に入った。


あと1度見学して、それで問題がなければ、入居する…


それに、母は同意した。




そこまで頑張って成果が出て目鼻がついた時、


私は、事の成り行きを、
日頃は全く疎遠な兄2人に知らせた。


兄2人は、私ばかりでなく、母とも疎遠だった。




…それに先立つこと10数年前、父がボケて以後、
そして、3年前、父が死んで以後も、


彼らは、ほぼ、知らん顔をしていた。




父が数日の入院後に突然死んだ時、



兄2人は、葬儀には来た。


ところが、2人とも妻を伴わず、1人で来た。



母は、最初から次兄の妻を嫌い、
ハッキリと意地悪く接していた。


それゆえか、
次兄の妻は、両親とも私とも、絶縁状態だった。



だから、次兄の妻が来ないのは、
私は内心驚いたけれど、まあ得心が出来た。



しかし母は、
長男の妻の方は、ものすごく可愛がっていた。



彼女は結婚に際し
「お父様お母様の老後は私たちが見ますから」
と母に申し出て、
母を、鬼の首でも取ったように有頂天にさせた人だ。


そして
その言葉を聞いて安心し切った母に、
次兄夫婦と私に対して、ハッキリと侮蔑の態度をとらせた人だ。



その彼女が来なかったことは、私には驚きだった。




長兄は、私に向かって、平然とスラスラこう言った。



「○子さん (自分の妻をサン付けで呼んだ) は、
ボランティアが忙しくて行けないと言っていた。



それに、数年前、
自分達が両親をタクシーで市内観光に連れて行った時に、
お父様には既にお別れを済ませてありますから…

と言っていた。」




私は、このセリフを聞いて、一驚した。



いくら相手がボケ老人でも、
まだちゃんと生きている人間に向かって、
今生の別れを済ませていた…とは…。



よく、そんなことを口に出して言えたものだ…。



それは普通、内心で思っていたとしても、
死者の血縁者に対しては、

口に出せない言葉ではないか…?




葬儀は、もちろん死者との別れの儀式だ。



しかし、この場合は、
夫を失って衝撃に沈む老母を慰める、

そのために親族は集まるのではないか?



しかも母は、
実娘の私の100倍も1,000倍も、彼女を可愛がっていたのだ。



私は、開いた口が塞がらなかった…。




しかし、とにかく、
私は葬儀を進行させねばならなかった。



葬儀屋さんが、
次々と決定するべき案件を示し、決定を迫ってくる。



喪主は母だが、施主は長男だった。


母はすっかり、呆然として、何一つ出来ない状態だ。


87歳だから、やむを得ない。



最初、私は、
施主の長男が葬儀を司るだろうと考えていた。


さもなくば、
兄妹3人で合議して決めるのだろうと考えていた。




ところが、そうではなかった…。



葬儀屋さんが私たち兄妹3人のいるところへ、
決定すべき案件を持ってきて、説明をする。



話を聞き、「ウーン」と、3人とも迷う。



しかし、私がふと気づくと、
いつの間にか、

長兄も次兄も、その場からいなくなっているのだ…。



仕方なく、その場に取り残された私が、
次々と全てを決定して行った。



それが、何度も繰り返された。




「お前に任せる」という気持ちならば、
彼らは、そう私に頼むべきではなかったろうか?



しかし、兄達は、そうはしなかった。


葬儀屋さんの話は一応聞く。


しかし、聞いただけで、
いつの間にか、忍者のごとく消え失せるのだ…。



今考えても、彼らは、「無責任」であった…。





また、今思うと、
本来なら私は、もっと兄達に、事前に根回ししてから、
母の「老人ホーム入居」を進めるべきだったろう…

とも思う。



しかし、
両親が老後に突入して以後の、
母の入院・父のボケ・父の死…
すべてにおいて、私だけが走り回っていた。


兄達は、遠方を良いことに、
完全に知らん顔を決め込んでいた。



次兄は、多忙な海外営業ビジネスマンで、
時間的に余裕ゼロ。


次兄の妻は、母に苛められて全く絶縁状態。
(その上、おそらく彼女はアスペルガー。)



そして長兄は、私の「相談」すら、完全に拒否。


長兄の妻も、遠方をこれ幸いと、全く疎遠。




10数年の間、私は孤立し、
1人で両親の世話を焼いてきた。



その私が、母の老化に直面した時、
またしても1人で

「母にとっての最善」を決断して事を進め、
最終段階で兄達の了承を取り付ければ良い…

と考えたのは、
無理もなかった…
気がする…。




とにかく、
それまで、
ずっとそうせざるを得なかったのだから…。




そして次兄は、
私の予想通り、「了解」とのみ返事してきた。



ところが、
長兄のリアクションは、私には全く想定外のものだった。




長兄は、即座に、私には黙って母に会いに来た。



そして、母と仲良く2晩を過ごし、
最後に、

母を翻意させるために、決定的なひと言を投げつけて去った。



そして、母は、
まんまとその長男の大ウソに騙されてしまった。



母は、
「老人ホームに入れば1年で死ぬ」という
長男の大ウソを信じ込み、
老人ホームに入れようとした私を、

「やはり信用ならないバカ」と決めつけ、
憎悪した…。




私の数ヶ月の努力は、
長兄の大ウソにより、水疱に帰した。



何より、
「母の今後」が、不安なものになってしまった。


母は、
体力低下だけでなく、明らかにボケ始めていたからだ。




私は、そのボケを、
独居でデイサービスも行かず、

人との接触が全くないため、と考えていた。



母は、おしゃべりが大好きだ。


しかし、友人がいない。


親戚との付き合いもない。



そんな母は、
よく、スーパーに買い物に行く道すがらの家の老女の何人かに、
庭先でこちらから話しかけ、

長々と立ち話をするのを好んでいた。


そうやって会話を楽しんだ後の母は、
嬉しそうに生き生きとして明るく活発になり、
脳も、かなり活性化するのだった。



その姿を見て、私はつくづくと感じた。


いくら、私が電話で母と長々と話しても、
母は、ボーッとしたままだ。


家族では、ダメなのだ。


家族では、慣れすぎていて、脳が活性化しないのだ。


他人様との会話こそが、
人間の脳を緊張させ、活性化させるのだ…と。



だからこそ、私は、
母には老人ホームが適していると考えていた。


老人ホームには、沢山の老女がいる。


必ず、
おしゃべり好きな母の話し相手になってくれる人がいるだろう。


いろんなスタッフとの会話もあるだろう。


だから、母は、1人でずっとボーッと家に居るよりは、
ボケないはずだ。



この私の考えは、その後、完全に実証された。



老人ホームで、3度3度、食堂に行き、
数人で一緒にテーブルに着き、
周囲の人を観察したり、ちょっとした会話をする。


それが、母にとって、ものすごく大きな刺激となった。


8年前の入居前の母と、今の母を比べると、
今の方が、ずっとボケていない。



ただし、感染症が流行り、
自室内で食事をする事が続き、部屋に長く籠ると、
母は、やはり、ボケる。


本当に、「食堂効果」は偉大だ。




しかしとにかく、8年前の母は、かなりボケかかっていた。


それは、たまにしか会わない長兄には、
分からなかったのかも知れない。


たまにしか会わない相手には、
普段ボケた老人も、突如覚醒し、

かなりシッカリした対応をするからだ。



しかし、長兄には、母がボケていようが、ボケていまいが、
どちらでも良かったのだろう。



とにかく、長兄の考えは、
「老人ホーム入居を阻止し、母を家に留めておく」だった。



長兄が、月に1度くらい泊まりがけで様子を見に来て、
母がそれに満足し切り、
2人が「アツアツの恋人同士」として固く結束し、
その上、

母が私を「人殺し」と見なして
憎悪してしまった…。



その状況下では、
私が何を言おうと、

ムダ…だった。




…私が為すすべのないまま、半年が過ぎた。


私は、事態の好転を諦めていた…。




そんなある日、
突然、
地獄の底から響いて来るような母の声が、

電話の向こうから聞こえて来たのだった。