こっそり捨てたボロ雑巾・1
私には、
ズタズタに破れ、グチャグチャに汚れ、
人に見られないように丸めてこっそり捨てた雑巾のような、
過去の長い時間がある。
今まで私は、
その長い時間を、大きな汚れたゴミ箱に押し込め、
長く封印してきた。
この20数年、子育てが第一で、自分を振り返る余裕もなかった。
しかし今、子は巣立ち、私は1人取り残された。
新しい人生の始まりだ。
しかし、ふと、私は気づいた。
私には、「自分というもの」がない。
あるとしても、「ダメな自分」しかない。
それは、なぜだろう?
自分無しには、新しい人生のスタートは切れない。
私は、意を決し、大きなゴミ箱のフタをあけることにした。
その中に潜り込み、自分の過去を発掘することにした。
そして、汚い破れた惨めなボロ雑巾を、
今の自分の眼で、
改めて見直すことにした。
それは、第一に、怖ろしい。
第二に、辛い作業だ。
そして、成功するかは、分からない。
やってみるまでだ。
【以下、そういう内容の長い駄文です。スルーください。】
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半世紀前、私は中学生だった。
当時の記憶は、既に、かなり朧になっている。
しかし、ところどころ、鮮明な記憶がある。
あれは、
私が親元を離れ、自炊生活を始めて2年目の、中3の冬だった。
実家で過ごした冬休みが終わった日。
私は雪の中を、
1人で列車やバスを乗り継ぎ、重い荷物を両手に提げて、
地方から都会へ戻って来た。
夕方で、もう外は暗かった。
同居の大学2年の兄はいつから不在なのか、
狭い家の中は、完全に冷え切っていた。
寒い上、空腹だった。
母が作って持たせてくれた、チラシ寿司を食べるしかなかった。
大きめのタッパーウェアに、ギッチリと詰められていたそれを、皿に移した。
ご飯は、すっかり冷え切って、固くなっていた。
ご飯も具も、ボロボロで、バラバラと、箸からこぼれ落ちた。
シーンと静まりかえった部屋で、1人でそれをかきこみながら、
なぜか、涙が溢れて来た。
ボタボタと、止まらなかった。
寂しかった。
世界中で、たった1人…。
孤立無援だった。
無為に過ごした実家での冬休みを思った。
受験生なのに、無気力に呆然として、過ごしてしまった。
明日から始まる、無味乾燥で希望ゼロの3学期を思った。
後から後から、涙があふれた。
塩辛かった。
それが、冷え切ったチラシ寿司に沁みて行った。
なぜ、自分は泣いているんだろうと思った。
なぜ、こんなにも悲しいのだろう…と思った。
辛かった。
みじめだった。
けれど、この寂しさと悲しさから逃れる方法はないと思った。
父が入れと命じた進学校へ進むこと、
それが私に課せられた絶対的義務だった。
それが、すべてだった。
夢も希望も、なかった。
日々、楽しいことも、なかった。
勉強に意味など見いだせなかった。
最低限の勉強をイヤイヤやるだけ、
最低限の家事に追いまくられるだけ…の生活だった。
それだけで、疲れ果てて、精一杯だった。
何のために生きているのか…わからなかった。
けれど、死ぬのは、怖かった…。
この悲しさを、自分は、きっと、一生忘れないだろう…。
止まらない涙を流しながら、
そう思った。
そして、やはり、半世紀後の今も、明確に記憶している…。
今思えば、冬休みになる前から、私は鬱だったのだ…と思う。
13歳から自炊生活を強いられ、
見守ってくれる大人も、助けてくれる大人もいなかった。
すべてを1人で背負い込み、1人で黙々と歩き続けるだけ…。
その慰謝ゼロの生活の疲労が、心を侵食し、病気にしていた…と思う。
あの溢れて止まらない涙は、心の病気のサインだった…と思う。
せめて、誰か1人でも、
まだ子どもだった私に関心を寄せ、
温かく見守ってくれる大人がいれば… …。
しかし、誰1人、居なかった。
今思えば、あの生活は、親による「虐待」だった。
私の意思など完全に無視して、
父が勝手に進路を押し付け、
進学校への進学を目標に転校させたのみならず、
厳しく孤立した自炊生活まで強いたのだから…。
いわば、父は、
私の未来も現在も、私の人生を、勝手に乗っ取った…。
「自分」を乗っ取られた私に、
「自分の幸せ」など、あるはずがなかった…。
今なら、それが、よく解る。
しかし、当時の私は、
「仕方がない。
親の決めたこの道を行くしかない…
親に従う以外、道がない」と、
思い込んでいた。
無気力になり、鬱になるのは、やむを得なかった…。
今は、父に、
「私の人生を返して!」「私の青春を返して!」と、叫びたい。
しかし父は、12年前に、骨になった。
とっくに、墓の下だ。
そもそも父は、死の15年前から、呆けはじめ、
まともな会話は無理になっていた…。
一方、母は、「子どもの教育」を、全て父に丸投げしていた。
「自分は小学校しか出ていないから、教育のことは分からない」と言い放ち、
すべて、父任せだった。
今思えば、1人の親として、余りにも無責任だった。
その上、両親は、
親戚づきあいもしておらず、友人も全く居なかった。
誰も、
「中学生を、未成年の兄と2人だけで住まわせ、自炊させる」
ことの異常さ・非を、両親に指摘しなかった。
父は、好き勝手に、私をメチャクチャにした…。
私が、もっと強い子だったら、きっと耐えられたのだろう…。
けれど、私は、弱い子だった…。
今、私に出来ることは、
タイムマシンに乗り、
1人で泣いている中学生の肩を抱き、
「あなたは悪くないよ。あなたは十分頑張っている」と、
孤立して震えている背中を撫でてやることだ。
そして、1人の大人として、父に、こう詰め寄る。
「あなたのやっていることは、単に、あなたのワガママです。
そんなワガママで、娘さんの人生を乗っ取ることは許されません。
あなたに、そんな権利はありません。
親に、子の人生を乗っ取る権利などないのです。
娘さんの人生は、娘さんのものです。
娘さんを、自由にしてあげて下さい。
娘さんに、娘さんの人生を返して上げて下さい。
さもなくば、娘さんはこの先ずっと、不幸です。
娘さんを不幸にしたいのですか?」
すると、父は、こう反論するだろう。
「子どものことを一番解っているのは、親です。
子どもは未熟で、判断力がありません。
だから、私が代わりに判断してやっているのです。
私は、娘を幸せにするためにやっているのです。」
私は反論する。
「いいえ、
子どものことを一番解っているのは、子ども自身です。
娘さんが何を好きで、何を嫌いか…
あなたは全て知っている、とでも言うのですか?
逆です。
あなたは、何一つ知らないし、知ろうともしない。
あなたは、娘さんの話を聞いたことなど、1度もありません。
そんな人に、娘さんを幸せになんか出来ません。
それなのに、
あなたは、あなたの夢を、娘さんに勝手に押し付けている。
進学校に進み、○×大学へ進めば良い人生だと考えるのは、
あなた自身です。
娘さんの考えじゃない。
娘さんは、
あなたに何でも勝手に決められて、もう自分を失っています。
そんなに○×大学へ行くのがベストだと言うのなら、
あなたが自分で行けば良いのです。
娘さんに、娘さんの人生を返して上げて下さい。
よその親は、中学生に自炊までさせて進学校へ進ませるなんて、していませんよ。
それは、虐待です。
まだ子どもである娘さんに、無理な事を強いているのです。
そんなに都会の中学校にやりたいのなら、
大人のあなたが、自分で自炊すれば良いのです。
奥さんに、子どもの世話をさせるべきです。
大人のあなたの世話ではなく。
中学生には、まだまだ、母親の作った食事や世話が必要なのです。
それを奪うのは、虐待です。」
父は、きっと、こう怒鳴って拒否するだろう。
「ワシに命令できる人間は、おりません!」
事実、父は呆けた後も、追及されて窮すると、
こう怒鳴っていた…。
母は、私が6歳頃から、私にこう語って嘆いていた。
「長男が生まれて、次男がお腹に居た時、
お父さんに付いて行くのは、やめようかな…って、
すごく迷った。
でも、結局、付いて行った。」
それを聞いた幼い私は、こう思った。
付いて行かなければ良かったのに…。
そうしたら、私は生まれてなかったけど、それで良かったよ。
毎日毎日、こんなに「不幸だ不幸だ」って泣き言を聞かされるより、
その方が、ずっとずっと、良かったよ…!
…この考えは、今も、変わっていない。
母は、父とサッサと別れるべきだった。
世の中には、「結婚に向いていない人間」が、確実にいる。
つまり、
「パートナーを無視して行動する、自分勝手なエゴイスト」だ。
父は、そういう人間だった。
父と結婚している限り、母は、絶対に幸せになれっこなかった。
… … 歳月は流れた。
私は、父の葬式を執り行った。
その、まさに出棺の時、
87歳の母は、
60年分の憎悪と怨みをこめ、声を張り上げ、叫んだ。
「お父さん、好きなことしたね!」
母は、決断力・実行力がない人だった。
母は、何でもガマンし、
変化を恐れ、ひたすら現状にしがみつく人だった。
一般社会常識・思考力も、欠けていた。
それが、結果的に、私を不幸にした…。
母は、今も、
「中学生に、わざと自炊生活を送らせることは虐待だし、
世間では、誰もそんな異常なことをしていない」
とは、理解していない。
母は、昔も今も、
「自分達の育て方は、少しも間違っていない。
自分たち親は、ちゃんとやるべきことをやった。
ダメだったのは、娘だ。
娘が、おかしかった」
という考えのままだ…。
そして、
「こんな出来損ないの娘に世話されている自分は、
とても不幸だ」と、
今、考えている…。