すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

悲しい私、悲しい母の人生【長文】

昨年、母が入院した病院では、

面会は、
「1ヶ月に1度。10分間。2人まで」と

決められていた。





1回目は、私と夫が行った。





母は、10分間、
最初から最後まで、
眉をしかめた

険しい表情だった。





枕元に座った私を
きつい目つきで睨み付けながら、
「胸が苦しい、苦しい」と
母は、

繰り返し、訴え続けた。





その険しい表情は、
10分間、
1度も緩まなかった。





そして、
その嘆きの合間に、
「ここに置いておくと、みんな、持って行かれるから」と、
老人ホームが持たせてくれた

ラジオなどの私物を
「全部、持ち帰れ」と、

私に
指示した。






母の物盗られ被害妄想は、
老人ホームにいた時から、
既に、

かなりひどくなっていた。






骨折手術後の定期検診を医師から指示されたため、
老人ホームのケアマネさんが
母の部屋に行き、
「今回で最後にして良いそうですから、
行きましょう」と
母を説得した。





ところが、母は、
「私を長時間留守にさせて、
その間に、

部屋の中を漁って物を盗るつもりなんでしょ。
その手には乗らないよ」と、
堂々と言い放ち、
断固、

受診を拒否したそうだ…。







2回目の面会には、
私と、東京の次兄が行った。






最初は、
東京の次兄の他には、
関西の長兄が行く予定だった。





しかし長兄は、
直前になり、
「また、コロナが増えてきた。
自分はハイリスクだから、今回はやめておく」と
断ってきた。







母のベッドへ行くと、
当然のように

次兄が母の枕元に座ったので、
私は、

母から離れた足元に座った。






次兄は、
いつもモゴモゴと不明瞭に話す人だが、
マスクのため、
その声は、更に聞き取りづらかった。





しかし、
次男の顔を見ただけで、

母は、
満面の笑みを浮かべた。





次男が何を言っているかは、
その耳に
届いていない様子だった。





しかし母は、
「よく来てくれた。よく来てくれた」と
何度も何度も、

繰返して喜び、
いかにも満足げな笑みを浮かべた。






そして、唐突に、
「抹茶。

あれは良いもんだ…。
アンタもやりなさい」と、
うっとりと夢見る表情で、

次兄に
語り始めた。





母の言う「抹茶」とは、何か?






両親はいつも、
きたなく散らかった居間のテーブルで、
抹茶茶碗に茶筅で抹茶を点て、
羊羹などの甘い菓子をつまみながら

飲んでいた。






それを、母は、うっとりと追想しているのか?





いや、そうではなかろう。






父の父親は、寺の住職の傍ら、
茶道教授をしていた。





母は、父に従い、
父の実家ですごした期間が

数年間あった。





約70年前のことだ。






そこでは、
父と、父の実母が犬猿の仲であり、
2人は

しょっちゅう
大喧嘩を繰返していた。






その大喧嘩の最中、
父の実父が、
「ワシとお前が苦労せんとならんなあ…」と言って、
母に

やさしく寄り添ってくれたそうだ。






母を可愛がってくれた父の父親は、
母にとって、
唯一の

「理解者・味方・保護者」だったのだ。






その父の父親が、
茶室で母に、
度々、茶を点てて振舞ってくれた。






それが、
母にとっての「黄金時代」であり、
大切な
「幸福な甘美な思い出」なのだろう。






また、
私の2人の兄たちは、

そこで乳幼児期を過ごしたが、
寺や近所には大勢の人がいて、
子育てを

みんなで手伝ってくれた。





だから母は、
大変な子育て期間も、
楽しく過ごせたらしい。






その上、当時は、
母にとっての「諸悪の根源=私」も、
まだ

生まれていなかった。






だから、
母にとっては、
当時こそが、
うっとりと追想に耽ることが出来る

「最高に甘美な時代」なのだろう。







ベッドに寝たきりの母は、
次男を前に、
70年前に

タイムスリップしていた。





うっとりと
70年前の世界に浸り、
酔い痴れて
満足していた。






一瞬、
母と次兄との他愛ない会話が途切れた。






既に
10分の制限時間が来ていた。





面会の最初から、私は、母に黙殺されていた。




私は、
次兄と母、2人だけの長閑な会話を


まるで部外者のように、
会話から閉め出されて


横で
置物のようになって、


聞かされただけだった。






しかし、もう時間切れだ。






私は、
思い切って、

会話に割り込んだ。





「具合はどうなの?痛いところはないの?」と
母に

質問を投げかけた。







すると、その時
初めて母は
私を一瞥した。





それは、
鋭い刃のように
ギラリとした一瞥だった。





さっきまで、
次兄へ向けていた夢見心地の表情は、
一瞬で、

消えた。





一瞬の視線は、
よく切れるナイフのように、
ギラリと冷たく光り、
私を、

グサッと
鋭く深く突き刺して来た。






「痛いところばっかりだわ!」






怒りと共に吐き捨てられた声も、
もう、

さっきまでの
甘い楽しげなうっとりした声とは
打って変わった。



氷のように冷たく鋭く、
険しい声だった。






その母の言葉と同時に、
カーテンが

ザーッと音を立てて開き、
看護師さんが

入って来た。





看護師さんは、にこやかに、
「あら、
痛いところばっかりなの?
どこが痛いの?あとで教えてね」と

やさしく大声で母に話しかけた。




母は、気まずそうに
黙って答えなかった。






やはり、
母が

苦痛を激しく訴えるのは、
私に対してだけ…なのだ。



そうと知れた。






認知症になると、
新しい記憶ほど先に失い、
古い記憶ほど、鮮明に甦るそうだ。





そして、
記憶力や知的思考力を失っても、
感情だけは

失わない。






私を生んでからの数年間、
「こんなカタワ者、死んでしまえ」と、
母は真剣に、

私の死を願っていた。






現在の寝たきりの母は、
「現在」に生きているのではない。





「何十年も過去の子育て時代」に
タイムスリップしているのだ。






私に対しても、
当時に抱いていた感情=

「憎悪」を抱いているのだ。






すなわち、
「私を不幸にしているのは、このカタワ者の娘だ。
コイツが憎い」と…。







今、
冷静に考えると、
これまで60数年、生きて来て、
あんなにも鋭く刺すような視線を
私に向けて来た人は、

母以外には、いない。






幼かった私は、
日常的に、「あの視線」を浴びていた。






「お前なんか、死ね。」


ハッキリとそう言っている視線だ。






もうすっかり薄らいでいた
3歳頃の記憶=
《私を見る母の、異様に険しい、刺すような視線》が、
あの母の一瞥によって、

まざまざと
甦ってしまった。








私を生んでしまった母。



母の元に生まれてしまった私。






双方共に、不幸な、この世での出会いだった。






しかし、
その母との関係も、

数年以内に終了する。






もう少しの辛抱だ。






願わくは、
来世では、別の母の子に生まれたい。






そう、願うのは、
バチ当たりなのだろうか?






そんな願いを持てば、
母よりも更に酷く虐待する人の元に

生まれるのだろうか?







母は、母なりに頑張った。



そう、思いたい。






しかし、
なぜ、
長男夫婦に向ける溢れんばかりの愛情の、
その百分の1でも、
私に

向けてくれなかったのか?






なぜ、
自分の背負った不幸を、
すべて、

私のせいにしたのか?







私は、悲しい。






「死ね」と呪うなら、
いっそ、
殺して欲しかった。






しかし、
母は、
自分が人殺しになることを怖れたのだろう。






殺せないならば、
あきらめて、
私を受け入れて欲しかった。







しかし、
母は、
私に憎悪を向け、

私を
ストレス発散の道具にした…。








母の人生は、悲しい…。







母の人生は、
自分勝手だ…。






私の「被害」など
1度も考えた事がない。






母は、
常に
自分の「被害」しか、
考えて来なかった…。










※先程、ツイッターで、
以下のツイートを見かけた。






「被害を受けた側が
何も言わないのは
被害が『終わった』のではなく
被害を口にできるほど

回復していないからなのかもしれない…」







本当に、そうなのだ。





私は、
息子を授かって以来、
少しずつ
幸せになって行った。



しかし、それまでは、不幸だった。



両親によって、
人生をメチャクチャにされていたからだ。






しかし、
当時の私は、
自分が「被害者」であり、

「加害者」は両親なのだ…ということを、
まだ
明確には理解できていなかった。






その上、
「被害」が大きすぎたため、
私は

長い間、
押し黙らされていた。






私は、
「耐え忍ぶ」「生き延びる」だけで、
精一杯…だった。




それ以上、
何も
出来なかった。






自分の心や苦しみを
直視して言葉にすることは、
長年、
出来ないままでいた。





それは、
両親が

「私の気持ちを無視する」ことを
「私には価値がないから」と正当化していたため、
私自身も、
それを

「正しい事」として、
受け入れさせられていた…ためだ。







今、私が、
「両親が加害者だった」と、明確に言い切れるのは、
今の私が、
「被害」から、

立ち直りつつあるから…なのだ。







長い苦しい歳月のあとで、
今、
ようやく…。