すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

母99歳。

長文ですので、スルー下さい!


昨日は、母の99歳の誕生日だった。


朝9時に、老人ホームに電話した。


まず、電話に出たスタッフさんに、
「コロナのクラスターが出ても、

濃厚接触者が特定された場合は、
施設名は非公表のようですが、

家族には知らせて貰えるのでしょうか?」と
尋ねてみた。


確認後、折り返しますとの事だった。



母の部屋につないでもらい、母と話した。


先日、母の初めての総入れ歯が完成し、調整も済んだばかりだ。


母の発音が、以前に比べ、かなり明瞭なので、
「今、入れ歯を入れてるの?」と尋ねると、

「そうだ」と答えた。


「99歳、おめでとう!」と言うと、
「なんで、生きてるのかね?」と、母は何度も繰り返した。



私「お母さんのお母さんも、米寿過ぎまで生きて、
当時としては、すごく長生きだったでしょ。


そのご長寿遺伝子を受け継いだんだよ、きっと。


生まれつき、長生きなんだよ。


だから、大変だろうけど、120歳まで頑張って長生きしてね。」



母「トイレが近くなって、夜中に何度も起きるので寝られない。


だから、つい昼間にぐっすり寝てしまう。


とにかく、歳をとると、毎日生きるだけで大変だ。


毎日、結構忙しいし…」



私「そうなんだ…。それは大変だねえ。


だけど、人間は生まれたら死ぬまで生きるしかないんだし、
もし、寝たきりになっちゃったら、

きっと、つまらなくなるだろうからねえ。


今は、何とか毎日頑張って、
寝たきりにならないように、気を付けて生活してね。」



コロナについては、母は
「他のホームでは出ているようだけど、

ここは厳重だから安心だ」
と言った。


不安感は体調を崩す元だから、
安心感が持てているのは良いことだ。


私も余計な事は言わず、
「そうだねえ!」と同調しておいた。



宅配便で何を送って欲しいか、聞き取ってから、
電話を夫に替わった。


お祝いの品は、既に、夫の名前で贈ってある。



夫は
「お母さん、おめでとうございます。


今は100歳以上の人が7万人もいる時代です。


お母さんも頑張って、もっともっと長生きして下さい」などと
明るく朗らかに、母の気持ちを引き立てるように言った。



母は礼を言い、
唯一の孫である私の息子について、
あれこれと夫に尋ねたようだった。


夫は
「便りのないのはよい便り…という状況なんですよ~」と言って、
笑った。


母は「早く結婚してほしい」などとも言った様子だった。


夫は「いや~まだ就職したばかりですからねえ 笑」と、
返事をしていた。



話がひと区切りし、また私に電話を替わると、
母は、久々に夫と話して感極まったのだろう、泣いていた。
(母は、私との会話では、泣かない人だ)



「とにかく、温かくして風邪を引かないようにして、
転ばないように気を付けて、頑張って長生きしてね~。
宅配便は、明日届くからね~」と電話を切った。



それから、スーパーへ行き、
母の所望品(メロンゼリー・どら焼き・お菓子・みかん・柿・リンゴ・尿漏れパッド
などなど)を買った。


家に戻り、段ボール箱に詰め、郵便局へ持参して発送した。




午後、ケアマネさんが電話をくれた。


「もし、ご本人に症状が出れば、
インフルエンザ同様、ご家族に連絡します。


他の入居者さんへは、無用な混乱を防ぐため、
お知らせしません。


クラスター発生時は、
今まで通り、ご家族が差し入れ品を施設玄関まで持ち込めるか、
それとも敷地内立ち入り禁止になるかは、

その時の行政の判断になります」
との事だった。



ホームでインフルエンザなどの感染症が流行れば、
まず「食堂利用」が中止され、個室内の食事となる。


ホームの動向を知るためには、こちらからこまめに電話して、
スタッフさんに探りを入れ、母からも話を聞くしか、

方法はないようだ…。




バカ女地域では、
ここ数日、毎日のように、

老人施設でクラスターが発生している。


発生した施設では、毎日、高齢患者が次々と増えていく。



高齢患者だけで、
この数日間で、既に合計80人以上、発生したと思う…。



その上、なんと、市内のコロナ受入れ重点病院の
コロナ病棟の医師・看護師にクラスターが発生したそうだ。


そして、その病院は、
コロナ患者の受け入れを中止したそうだ…。


市長の会見によると、
市内のコロナ入院受け入れは、厳しい状況に陥ったそうだ…。



これは、カンタンに言えば、「医療崩壊の始まり」だろう…。


もっとも、怖れられていた事態が、
まだ11月、冬が始まらないうちに、始まってしまったのだ…。



前にも書いたが、
元々、90歳以上の高齢者は入院が困難だ。


認知症の場合、
看護の他に介護が必要なので、かなり人手がかかる。


認知症でなくとも、
入院すると一時的に認知症ぽくなる高齢者が多い。


そのため、90歳以上になると、なかなか入院が難しい。


空いていたはずのベッドが、「今、ベッドが埋まりました」と、
断りの電話が来てしまうのだ…。


3年前、私は実際にそれを体験した。



そういう事情もあり、
4月に市内の老健施設で起きたクラスターでは、
入院出来ないまま、施設内で10数名の高齢者が亡くなった。


施設内では、酸素吸入と点滴が精一杯の治療だったらしい。




母は、「心不全」と診断されている。


血圧も高く、腎臓が原因の貧血もあり、全体に体力もない。


食堂の往復は、歩行器を使用して歩き、
入浴の往復は車椅子に乗り、スタッフさんに押してもらっている。



とにかく、もし母が感染すれば、非常に危険だろう…。


99歳なので、天命と諦めるしかないのだろうが…。




…思い起こせば、8年前、母がホームに入居した時、
往診を契約した医師に、私はこう言われた。


「万一の時、救急車を呼んでしまうと、
管につながれて大変な事になります。


しかし、こちらに連絡をくれれば、
施設内で、そのまま穏やかに最期を看取ります。」



「植物人間」は極力避けたいと思った私は、
「もう90歳を過ぎましたので、
万一の際はそのようにお願いします」と、
医師に頭を下げた。




…原因がコロナであっても、
それ以外であっても、
結末は同じ」…
ということなのだなあ … …。




また、ケアマネさんからの電話では、こうも言われた。


「スタッフの感染リスクを減らすため、
入居者さん向けのお買い物サービスを、しばらくお休みします。


お買い物は、全て、ご家族で対応して下さい。」



それで、私は母に、もう一度電話をした。


今までホームのスタッフさんにお願いしていた
「要冷蔵品」の買い物は、私が引き受けねばならない。


母の所望の品(ヨーグルト・プリン・ヤクルトなどなど)を聞き取り、
ネットスーパーに注文を入れた。



ネットスーパーには置かれていなかった
「飲み切りサイズの人参ジュース」は、アマゾンに注文を入れた。



一連の作業の中で、私がいつも、いちばん面倒に感じるのは、
支出を全てノートに記録する事、
レシート類を保存する事、
立て替えたお金を母の財布から出す事だ。




9年前、長兄は、
私が見つけ母が気に入った老人ホームに難癖をつけ、反対して来た。


そして、母に、自分が独自に探し出してきたホームを強く勧めた。


それは、母の年金内で全てがおさまる、安いホームだった。


一方、私が見つけ、
母が「ここが良い、ここにする」と気に入ったホームは、
母の年金を毎月、全額そっくりホームに支払った上で、
医療費・小遣い等は、母の預金から取り崩す必要があるホームだった。



私と次兄は、それに異存がなかった。


母の年金以上の支出を、私ら子どもが負担するのならともかく、
預金には十分な余裕があった。


だから、子どもが負担する可能性は、

母がいくら長生きしようと、あり得なかった。



何より、母が気に入ったホームは、
個室内にトイレ・洗面所があった。


しかし、長兄推薦のホームは、「共同トイレ」だった。


それは、個室のドアから数メートルも離れていた。


洗面所は、更に遠かった。



当時の母は、
骨粗しょう症による腰椎圧迫骨折の激痛によって全く動けなくなり、
リハビリ病院に3ヶ月入院し、退院が近づいていた頃だった。


歩行器使用の訓練をし、
ようやく歩行器にすがって歩けるようになった直後だった。


骨は、相変わらずスカスカの粗しょう症で、
またいつ骨折するか分からなかった。



私と次兄は、
「母には、一歩でも近いトイレが必要だ」と、長兄に伝えた。


ところが、長兄は、なんと、
「母には我慢して貰いましょう」と、冷酷に答えて来た。



結局、長兄は、
母の預金を、「自分の老後資金」として当てにしていたのだった…。



私は、それを当初、知らなかった。



長兄が、なぜ、反対するのか、私には皆目見当がつかなかった。


長兄も、最後まで、肝心の本当の理由を私に明かさなかった。


別な屁理屈をあれこれとこねて、反対した。


しかし、どれも、
そんなにも執拗な反対を続ける程の理由ではなかった。



それで、私は必死に考え、長兄の言動の端々から
最後にようやく、彼の真意を悟ったのだった。



当時、長兄は、必死になって母を説得した。


私は、その電話の一部始終を、母のすぐ傍で聞いていた。


それはまるで、
サバンナで、肉食動物が草食動物に全力で襲いかかり、
執拗に追いかけ回す光景とそっくりだった…。



食うか、食われるか…だった。



しかし、長兄の嵐のような必死の説得に屈せず、
母は、逃げて逃げて逃げまくった。



そして、最後は泣いて、
「私の好きなようにさせて下さい!」と叫んだ。



そして、母は私に、
私が見つけたホームに決めると告げた。



私は、
「長男が大反対しているから、
別のホームを、私がもう少し探してみようと思う。



ホームはたくさんあるのだから、
みんなが気に入るところがあるかも知れない」と、
母に提案した。



しかし、母は
「いいや、もういい。私は、あそこがいい。もう決めた」と、
譲らなかった。



そこまで母が気に入ったホームならば、
私にも、次兄にも、異存はなかった。



私は、母の希望通りに、契約へと進んだ。



すると、長兄は怒り狂った。



「全部、お前のせいだ。どうしてくれる!」と、
私を、何度も何度も、矢のように激しく攻撃して来た。



私は、大きな衝撃を受け、涙が止まらなくなった。


夜眠れず、ボロボロになった。


長兄からのメールをチラリと見ただけで、
中身を開かなくても、
動悸と冷汗と吐き気に襲われるようになってしまった。



長兄は、30代半ば~40代後半まで、
12年間、留学した。


その12年間で、両親は、計1,000万円を仕送りした。



また、長兄の妻は、結婚当初、母に
「お父様お母様の老後は、私たちが見ますから」と、
自ら申し出た。


それを聞いた母は、鬼の首でも取ったかのように、
私と次兄夫婦に自慢した。



「ほーら、ご覧。


私の理想の長男は、やっぱり最高だ。


お前らなんか、長男の足下にも及ばない。


私は、長男夫婦の世話になる。


お前らの世話になんか、絶対になるもんか!」



母の、この上なく勝ち誇った、
そして、私と次男夫婦を見くだした態度は、
口に出さずとも、十二分に母の言いたいことを伝えていた…。




過去には、そういう経緯があった。



しかし、留学から戻って来た長兄は、
両親から遙か遠い地に居を構えた。


そして、両親には完全に知らん顔を決め込んだ。




その後、母がまず、80歳で大腸ガンになり、入院した。


父は当時、アルツハイマーを発症していた。


何でもすぐに忘れ、新しいことは全く記憶できなかった。


両親の近くに住んでいたのは、私だけだった。



私は、当初、長兄にメールで、
自分一人では判断に迷うような事を相談した。



次兄は、海外営業の仕事で日本にいないことも多く、
日本にいても連絡が付かず、相談が無理だった。



一方、長兄は、世間的には「有閑」と言われる職に就いていた。



ところがある日、長兄から、長い長いメールが私に届いた。


それは、怖ろしく遠回しな、持って回った文章だった。


しかし、煎じ詰めれば、こういう内容だった。


「オレは忙しい。相談されるのは迷惑だ。
以後、一切相談しないでくれ。」



母は、次男の妻を嫌い、ずっと、意地の悪い態度を取り続けていた。


(次男の妻は、おそらくアスペルガーだろうと、私は推測している)


逆に母は、長男の妻を、大変に気に入り、
ものすごく可愛がってチヤホヤした。



しかし、長男の妻も、次男の妻も、母への態度は同じだった。



二人とも、遠方に住むことを最大限に利用し、
完全に知らん顔を決め込んだ。



また、両親には、親しい親戚も友人も、皆無だった。



私は、その後の10年、
両親の世話を相談相手なしに孤独に進めた。



10年が経った。



1,000万円もの留学費用を両親から貰い受けた長兄が、
その上、まだ親から金を貰おうとしている事実は、
私にとって、甚大な衝撃だった。



私は、
1,000万円も貰った長兄は、
「自分は1円の遺産も要らない」と申し出るもの…と
思い込んでいた。



「もっと欲しい」と考えているとは、夢にも思わなかった…。


しかし、それが「事実」だった …。



私が、甘かったのだ…。



その上、
自分は何一つせずに知らん顔を決め込んでいた長兄が、
10年間一人で両親のために走り回って来た私を

激しく攻撃した事実が、私に、想定外の衝撃を与えた。




そもそも、子ども時代、
私は長兄を「大好き」だった。



「優しく、賢く、よく気の付く人」…
「家族で一番まともな良識を持った人」…と、
長年に渡り、

私は誰よりも深く、長兄を信頼していた…。



成人するまで、長兄は、
私の「最も敬愛する人」だったと言っても、
過言ではなかった。




その兄が、「金の亡者」と成り果ててしまった…。



何もしない兄に代わって両親の面倒を見て来た、
私は兄の役に立って来た、
という、心の底にあった長兄への私の思いも、

ズタズタに踏みにじられた…。



私は、心身ともに、弱った。



今、振り返っても、あんなに涙が流れ続けた経験は他にない。


溺れる者が藁をもつかむ気持ちで、弁護士に相談に行った。



弁護士は、その時、
「お母さんの金銭支出は、全て記録しなさい」と私に告げた。


私が「自分の家計簿すら付けていない私が、
母の金銭出納簿を付けるんですか?」と
驚いて尋ねると、弁護士は、

「あなたのためです。付けなさい」と、強く言い切った。



それ以来、私は仕方なく、
母の支出は全て記録し、レシート類も全て保存している。



何ひとつしない長兄が、遠くでふんぞり返り、
母に振り回されて右往左往する私が、

いちいちの支出を細かく記録する…。



…これをする度、私は、心から「理不尽」と思う。



せめて、母が私に「心付け」でもくれるのならば、
許せるのかも知れない。



しかし、母は、「3人平等」を、頑なに守りたい様子だ。


私には、何一つ寄越さない。



60数年前からの「母の最愛の長男」は、
いまだに「母の最愛の恋人」なのだ。



たとえ何一つ貢献しない存在でも、
長男にキッチリ「1/3の分け前を与えたい」のが、
母の本音だ…。



私の労力に対しては、
母は「近くなのだから当然・その上、娘なのだから当然」と、
思っているらしい。



父の「男尊女卑思考」に、母も見事に洗脳されてしまった…。




そもそも、私が6歳の頃から、
母は、私を「自分の下女」のように扱って来た。


幼稚園にも行かせて貰えなかった私は、家にずっと居た。


僻地暮らしで、近所に友達一人いなかった。


母の気が向いた時に、母の愚痴を一方的に延々と聞かされるのが、
唯一、私の重要な役目だった。



その母の愚痴の内容は、すべて「父の悪口」だった。



「父がどんなに酷い人間で、
長年に渡り、どんなに酷いことをして母を苦しめて来たか…」
母は、延々と語った。



聞き手は、私一人だけだった。


母が私に向き合うのは、唯一、その時間だけだった。


他の時間は、母は、私に振り向きもしなかった。


話しかけもしなかった。



6歳だった私は、母に愛着していた。


だから、その母を苦しめる父を大嫌いになった。


父を「悪い人」と思い込み、
「母を自分が守らねば」と心の中で決意した。



ところが、いざ、夕方頃に父が帰宅すると、
母は一転して、にこやかな表情に変わり、
いそいそと父を迎え入れた…。



さっきまで、私をつかまえて熱心に父の悪口を、
顔をしかめて悲壮に語りかけていたのに、
もう私を見向きもしない。



その母の豹変ぶりに、6歳の私は混乱した…。