学歴劣等感との訣別・2
破綻は、
いつのまにか私が近視になり、視力が落ちた事から始まった。
数学の教師が板書する「6」と「b」の区別が、
いつの間にか、つかなくなった。
運悪く、「6」と「b」を、紛らわしく書く教師だったのだ。
そういう場合、普通は、親に訴えるだろう。
そうすれば、親は、
「見えるように、前の方に座らせて貰いなさい」と、
知恵を授けるだろう。
もしくは、眼鏡屋に連れて行き、眼鏡を作ってやるだろう。
しかし、私に、困りごとを訴えられる親はいなかった。
当時は、電話もなかった。
親との関係は、ひと月に1度、現金書留封筒が送られてきて、
兄がそれを受け取るだけ…だった。
(今考えると、当時の私は、数年前から既に、
「自分の事は自分で解決するしかない。親は頼れない。
母は、逆に私が守ってやらねばならない人」と思っていた。)
私は、
「見えないなぁ…」と思いながら、そのまま過ごしていた。
いつの間にか、私は、無気力になっていたのだと思う。
どうなろうと、知ったこっちゃない…。
自分の人生なのに、まだ中学生なのに、
私は既に、そう思っていた。
未来に、何の希望もなかった…。
確実に、数学の成績は落ちて行った。
しかし、それを気にかける存在はいなかった。
両親は、私のことなど、気にかけていなかった…。
それよりも、当時、私を悩ませていたのは、
「ストッキング問題」だった。
私が小学校3年の時の事だった。
下校しようとして学校の玄関で靴を履いていたら、
ふざけた男子達に、思いがけなく、ランドセルを壊されてしまった。
背負っていたランドセルのフタを強く引っ張られたため、
アッという間に、ランドセルのフタが、
ビリビリと本体から、完全に引きちぎられてしまったのだ。
(今ならば、弁償もあり得る話だが、当時は泣き寝入りした。)
親は、ランドセルの代わりとして、
安物のビニールの学生用手提げカバンを、私に買い与えた。
その安物のビニールカバンを、
中学生になっても、私は使い続けていた。
しかし、そのカバンは、マチが幅広過ぎた。
普通の学生カバンの倍はあった。
そのため、歩く度に、
カバンの出っ張った底の縁が脚に当たるのだった。
その上、
長年使っている間に、縁が擦り切れ、ギザギザに尖った。
その尖りが、ストッキングを次々に伝線させてしまった…。
しかし、当時の私には、それを訴える相手がいなかった。
私は、仕方なく、次々に新しいストッキングを買って履いた。
元々乏しい生活費が、ますます乏しくなった。
しかし、ガキの私には、
「いっそカバンを買い換えた方が良い」という発想が
湧かなかった。
「新しいカバンは高価だから、ガマンしなくては」
という考えしか、頭になかった。
(今思えば、そこがやはり、幼稚な中学生である。)
今のようにガムテープのような便利品もなく、
補修も出来なかった。
「ストッキングが毎日のように伝線して破れる…。」
「板書が見えない…。」
……惨めさが、私の心の中に、雪のように、降り積もって行った。
静かに… 深く… 深く……。
静かに、心が硬く冷たく、凍りついて行った。