90歳の老女が奏でる天上の音楽
Ingrid Fuzjko Hemming - Solo Piano Concert in Bratislava 2022
67歳で、
NHKのTV番組によって
世に出てブレークした頃の音は、
暗く悲しい「恨み節」だった。
天分に恵まれ、
努力も
十分重ねた。
それなのに、
天は、
彼女に味方せず、
長過ぎる辛苦の年月を与えた。
けれど、
彼女は
あきらめなかった。
ひたすら練習を重ね、
筆舌に尽くせぬほどの
辛苦の経験すら、
妙なる音楽に変えてしまった。
ブレーク後の音は、
成功の
明るい歓喜に満ちている。
満ち足りた成功者の音楽だ。
けれど、
この90歳の彼女の音楽は、どうだろう。
長すぎた辛苦の歳月。
その後の大成功の幸福感。
それらを、
この90歳は
すべて内包しつつ超越し、
まっしぐらに
天上の歓喜へ駆けのぼっている。
純粋な音楽の歓び。
PETROFのピアノを、
私は、この動画で初めて聴いた。
「独特のロマンチックな音」と
評されるようだが、
このPETROFによって、
彼女は、
天上への力強い翼を得たように思う。
音色が
彼女の音楽に
とても合っている。
亡くなる数ヶ月前に、
自宅階段から転落し、
重傷を負い入院し、
リハビリ中に膵臓癌と分かり、
その後間もなく急変し、
今年4月に
92歳で昇天した。
もし
大怪我をしなかったとしても、
天に召される日は
近づいていたのだ。
最後まで、
ピアニストとして
十二分に生き切った
見事な人生だった。
30歳頃に
ようやく留学したドイツでは、
日本人留学生仲間から嫌われ、
爪弾きされたそうだ。
混血だったためか、
その上、
無国籍だったためか……。
それで、彼女は、
「自分の国は、どこにもない。
天国だけが自分の国。」
そう思って生きてきたらしい。
「天国に行けば、
ショパンにもモーツァルトにも
母にも会える。」
そう信じていたらしい。
その思いは
叶えられているだろう。
聴き手に、そう確信させる
この彼女の音だ。
私は今まで、
彼女の「カンパネラ」には、
何かクドさを感じ、
一度聞くと、
繰り返し聴きたくはなかった。
しかし、
このコンサートの「カンパネラ」には、
しつこさがない。
曲目、曲順も
奇蹟のように美しい演奏会だと思う。
「わたしは
心がきれいだから、
わたしの音は
きれい。」
かつて、そう語っていた。
おそらく、
その通りなのだろう。