ナイフで突き刺したい
50代、60代は、
親と
死に別れる年代だ。
親と死別し、
心から
悲しみ、
打ちひしがれる人が
私には、
まぶしい。
それだけ、
その人にとっては、
親は、
長年にわたる、
大きな「心の支え」であり、
「有難い」存在だったのだ。
私が15年前、
父と
死に別れたとき、
私が
感じたのは、
「安堵」だった。
「これで、もう、
2度と
攻撃されない」と……。
一昨年、
母が
死んだ時も、
同様だった。
「これで、もう、
侮蔑と否定の視線を
浴びずに済む……。」
私が
最近、気づいたことは、
人間には、
大別して
2種の人間がいることだ。
幼少期から親に愛され、
親が
「心の安全基地」、
「自分の味方」として、
「心の大きな支え」と
なっている人。
それから、
逆に、
親から
愛されなかった人。
無視されたり、
攻撃されたり、
いわゆる
「虐待」を受け、
心に
「安全基地」、
「大人の味方」を持たず、
孤立したまま、
成長した人。
犯罪者、
または、
犯罪には至らなくても、
「人格異常者」として、
周囲に
害毒をまき散らす人は、
大抵、
育ちに、
「被虐待」を抱えている。
しかし、
「親に愛されて
育った人」は、
「愛されずに
育った人の心の内」を
理解することが
難しい。
彼らにとって、
「親の愛」は、
「空気や水や太陽」のように、
当たり前に
あるものだからだ。
彼らは、
犯罪者や
人格異常者の心の内を
理解せぬまま、
「罪」には、「罰」を与え、
それで済ます。
親に愛されず、
虐待された人は、
心の中に、
大きな空虚、
大きな傷を
抱えて生きている。
その内面は、
外見が
普通の「大人」になったところで、
思春期と
何も
変わっていない。
そして、
その内面が、
たとえば、
依存症にも発展する。
私は、数年前、
飲酒に、
ドクターストップを
かけられた。
「慢性膵炎のなりかけです。
絶対、禁酒しなさい」と
言われたのだ。
調べると、
慢性膵炎の行く末には、
凄まじい腹痛が
待っているらしく、
私は、
恐れおののいた。
そして、
私は
そもそも、
20年前に
乳癌になって以来、
断酒していた。
子どもが
まだ7歳であり、
何が何でも、
癌で死ぬわけには
いかなかったのだ。
しかし、もし、
それらがなければ、
私は、
今頃、
酒浸りになっているだろう。
私は、
辛口の日本酒を
とりわけ、愛していた。
「生まれ変わったら
杜氏になりたい」と
思うほどに。
しかし、
幸か不幸か、
飲酒に嗜癖することは、
肉体的に、
かなわなくなった。
私は、
常に
シラフで、
この荒寥たる世界に、
向き合うしか、なくなった。
私は、
両親と私の間に起きた事柄を、
夫に
この数年、
語り続けて来た。
今では、夫は、
それらを、
9割以上理解し、
「私の味方」と
なってくれている。
つまり、夫は、
ほぼ、
私の
「心の安全基地」に
なってくれているのだ。
しかし、
そもそも
「他人」である夫には、
私を100%、
受け入れることは、
難しい。
同様に、
私も、
夫を100%、
受け入れることは
難しい。
そこが、
「親子」とは
違うところだ。
無力・無知な、
幼い自分を
100%、
受け入れ、
愛してくれる存在。
そんな人が、
母であり、
父であったならば、
人は、
どんなに幸せだろう。
私は、それを、
うっとりと
夢想する。
しかし、
その憧憬は
完全な空想だ。
現実は、
真逆だった。
しかも、私は、
長年、
その現実を
客観視できないまま、
その現実に、
グルグルと巻き込まれ、
殴られ蹴られ、
押し潰され、
窒息しつつ、
生きてきた。
川上未映子の
「黄色い家」を
読んだ。
「被虐待児」の
その後の苦しい生が
そこに、
あった。
否応なく、
自分の
中高生時代を思い出した。
苦しみが甦った。
この本は、
とても
売れているらしいが、
主人公の苦しみを
まざまざと
感じ取れる人が
どれほど、いるのだろうか?
父が
骨と化して
久しい。
その父を、
生き返らせ、
ナイフで
突き刺したい。
「私の人生を返せ」と
叫びたい。
今、ようやく、
そう
思えるようになった。
そう思えずに、
ひたすら、
ずっと
しゃがみこんで
立ち上がれず、
泣いていた過去の私。
突き刺したいと
思えるだけでも、
前進だ。
この先に
何が
あるか?
わからない。
しかし、
先は、あるだろう。