すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

母の差別意識と蔑視

【長文】





母は、
私という人間を、全く理解していなかった。





私の2、3の断片だけで、
私を解った気になり、
軽蔑し、憎悪し、
その偏見と蔑視を、生涯変えなかった。





彼女の考えは、
煎じ詰めれば、こうだった。






… … … …






娘は、
鼻と唇が奇形であり、当り前でない。



顔が
当り前(正常)でない人間は、
当り前(正常)の人間でない。



出来損ないだ。



人間扱い出来ない。





その上、
娘は
顔だけではなく、性格も異常だ。





娘は
8歳の時、
友人宅で見た豪華雛人形セットを自分にも買ってくれと、
激しく泣き叫んだ。




尋常ではない、激しい大泣きだった。


自分たち親は、大変困らされた。




夫の母親も、
性格が異常であり、
激烈な言動に家族は困らされていたが、


娘は、
その姑にそっくりの異常性格だ。




娘は、
体が出来損ないだが、
内面も、

出来損ないだ。





こんな娘を持った自分は、とても不幸だ。



恥だ。


世間様に顔向け出来ない。



自分は、娘の被害者だ。


娘が加害者だ。



自分は迷惑だ。


嫌だ。不幸だ。



全部、娘のせいだ。


娘が憎い。







… … … …







母の考えは、間違っている。


私は
そう思う。






そもそも、
私の奇形は、原因不明だ。


母が飲んだ風邪薬が原因だった可能性も
あるのだ。




すなわち、
意図しなかったとは言え、
母が自分で

奇形をつくり出した可能性もあるのだ。



その場合、
もし責められるとすれば、


それは
私ではなく、


不用意に服薬した母自身ではないか?



むしろ、私は被害者ではないか?






また、
私の股関節変形の病気は、


「オムツや衣服で強く締め付け過ぎたために
起きた」。





すなわち
「養育者の行為の結果」だと、


現代では
判明している。





ところが
母は、



それも、
「私本人に起因する奇形の一種」として、


「自分は
迷惑をかけられた被害者であり、
娘が加害者」


という
強い被害者意識を持っていた。





しかし、
事実は、逆なのだった。







そして、
「奇形を持つ人間は、人より劣った存在。
人間扱いすべきでない」と、


母は
考えていたが、


その考えは
間違っている。






人間の身体は、
数え切れないほど沢山のパーツで構成されている。




そのすべてに
何の異常もないのは、
本当は、

むしろ奇跡なのだ。






赤ん坊は、
偶然、
何かしらの奇形を持って生まれてくる事がある。




それは、不可抗力だ。




誰にも、何の責任もない。





母の理屈通り、
「奇形児は人間以下」と考えるのなら、


たとえば、
心臓に奇形がある赤ん坊は、どうなのか?




人より劣った、人間以下の、
人間扱いしなくてもよい赤ん坊なのか?






「生まれつきの病気」も、
一種の奇形だと言えよう。





生まれつき病気を持って生まれた赤ん坊は、
すべて、

劣った、人間扱いしなくてもよい存在なのか?






また、
人間は、
子ども時代は健康でも、
「経年劣化」により、

様々な病気になる。





母の理屈で行くと、
途中で

重い病気になった人間も、


「当り前=正常でなくなった人間」であり、
「人間扱いしなくてよい、劣った存在」に

なるのではないか?






また、
老化し、自立出来なくなり、

要介護となった人間も、
同様だろう。






自立出来ず、
周囲が世話しなければ生きて行けなくなった人間は、


もう
「当り前=正常」でなく、



「劣った存在」だから、
人間扱いしなくてもよいのか??







… … … …







自分はマトモである。


欠陥がない。


正常だ。




それゆえ、
自分は、
人間扱いされるべき、優れた人間である。




マトモでない異常な人間は、
差別され、蔑視され、迫害されて

当然だ。






人間には、
人間扱いすべきマトモな人間と、
人間扱いしなくてよい劣った人間の
2通りがある。






マトモな人間である自分は、当然正しい。



正常な基準に達しない存在は、
不快で、わずらわしい。



足手まとい、ジャマなだけだ。



だから、
人間扱いしなくてよい。







… … … …







これが、母の考えだったと思う。







そして母は、
60数年間、
私を

差別し、見くだし、精神的に虐げた。







ところが、
母自身は、
90歳頃から、要介護の身体となった。






また、
その数年前から、
私の助力なしでは生活が成り立たず、
自立した生活が

出来なくなっていた。






にもかかわらず、
母は、

私に
ろくに感謝しなかった。





感謝するどころか、
逆に、
私への不平不満を募らせていた。





娘は、出来損ない。




こんな出来損ないに、
世話を受ける自分は、とても不幸。



しかし、
最愛の長男夫婦に世話をさせるのは、
可哀相だ。


そんなことは、とても出来ない。




だから、出来損ないにやらせるしかない。



出来損ないは、
大迷惑をかけて来たのだから、


少しくらい恩返しするのは
当然。




それにしても、


出来損ないは、
やることなすこと、不足ばかりだ。




自分は不満だし、


娘のせいで、とても不幸だ……。





… … そう、母は私に腹を立てていた。









老後の母は、
記憶力は
あまり衰えなかった。


(最晩年には、新しい記憶が失われ、混乱した。)



記憶力よりも、
「判断力」が
狂って行った。



もっとも、本人には
その自覚がなかった。



歪み、狂った頭脳で考え、
堂々と判断を下していた。



「自分は正しい」と、
自信満々の態度で、


事実を曲解した言動をし、
周囲を困惑させた。






すなわち、母自身は、


「自分は、頭はマトモだが、
身体がマトモでなくなった」とのみ、
考えていた。







また、母は、
老人ホームにいる間の約10年、


「もう焼かれたい!
今日でもいい!
何でお迎えが来ないのか!」と


怒り狂って
激しく
私に叫ぶ事が度々だった。






母にとっての私は、
「ゴミ捨て場」であり、
どんなに醜い本音を吐き捨てても構わない相手だった。






母は一度も、
私の立場に立って、ものを考えた事がなかった。






母は私に、徹頭徹尾、無関心だった。
母は、
要するに、
これっぽっちも

私を愛していなかった。







親は、
幼児を俯瞰し、理解する事が出来る。


(それを出来る親と、出来ない親がいるが…。)



しかし、
幼児は
親を俯瞰して理解する事は出来ない。







母は、生涯、
幼児のように
「愚か」だった。






その愚かさを自覚出来ないまま、
私を

「自分より愚かな出来損ない」と決めつけ、


幼稚な、浅はかな考えのまま、
母は

この世を去った。








人間は、
誰もが
赤ん坊として生まれ、幼児として育てられる。





赤ん坊も幼児も、「弱者」だ。



温かい保護と養育なしには、
まっとうな大人になれない。






また、
人間の大多数は、
病気や老いのうちに
死ぬ。




病者も老人も、「弱者」だ。




周囲の看護・介護を必要とする。






人間は、
人生の初期と末期を、
「弱者」=「周囲からの支えが必要な者」として過ごす。





人間の営為の多くが、
弱者を支えることに
費やされる。





それが、人間の社会なのだ。





助け合う事で成り立っているのが、
人間の社会なのだ。






子どもを、足手まといとして切り捨て、
温かい保護を与えなければ、
まっとうな大人は育たず、


社会は
維持出来なくなる。






病者・老人を、
「役立たずの用なし」としてガス室に送り込んだり、
虐待する社会は、
健常者にとっても、生きにくい。






なぜなら、
突然の事故や病気によって、
いつ

弱者に転落するか、
誰もが、

分からないからだ。





誰の人生にも、
一寸先も健常である保証は、ない。






そして、
長生きすればするほど、
誰もが

1年1年、老いて、
自立が困難になって行くのだ。







母の要介護・要看護の10年間が、
不幸で
惨めな晩年だったのは、


「弱者」となった母自身の考え方が、
弱者を差別し、

蔑視する考え方だったからだ。






弱者を人間扱いせず、
「劣った者」=「切り捨てるべき者」とする考え方は、
結局、


自分で
自分に切りつける。



自分で
自分の首を絞める。



そういう考え方だ。









私は、
母の老人ホームに通ううち、
母の近くの部屋に住む2人の老女と知り合い、
何度か

会話を交わした。



1人とは、
愉しいおしゃべりを何度も重ね、
かなり
仲良しになった。





2人とも、超高齢で
母と同年配だった。





しかし、
母とは
まるで違うタイプの女性だった。





良質の知性と教養が滲み出ており、
性格も

素直・温良、


とてもチャーミングで愛らしく
尊敬すべき
老女たちだった。





将来は、こんな老女になれたら…と
私は
思った。






そして、
もし、こんな人が私の母だったら、


私は、
どんなに嬉しくお世話が出来たろう… …


どんなに仲良く楽しく、
実り豊かな会話が出来たろう… …


そう
感じざるを得なかった。






今でも、
母を
懐かしくは思わない。






懐かしく慕わしく思えるのは、
あの2人の老女だ。





なぜ、あの2人が慕わしいのか?





それは、母が、
無知・無教養・品性低劣・
良識に欠け 歪んだ考えの持ち主だったから… 




それだけではない。





それは、
彼女たちの眼差しに、
母の眼差しにあった、

「否定」と「蔑視」がなかったからだ。




その代わりに、
優しい親愛の微笑・温かい包容が

あったからだ。






母が
私を見る眼差しには、
常に、

私への「否定」と「蔑視」があった。






私は、
あまりにも幼い頃から
その視線を浴び続けてきた。





唯一の庇護者の視線に含まれる「悪意」。





それに、
幼い私は、
「鈍感」にならざるを得なかった。





その「悪意」に、
気づかないふりをするしかなかった。




逆に、
私は
母の視線に
「好意」や「親切」を見よう見ようと
いつも
努めていた。





自分は
愛されているのだ…と
思い込もうとしていた。






それが、
幼い無力な私が
生き延びるために、
選ばざるを得なかった生き方だった。






しかし、
長い年月を経て、
母という人を

客観的に見れば見るほど、
私への

「否定と蔑視の常在」は否定できなくなった。




明白になって行った。







今、
生まれてはじめて、その視線から


私は
解放された。






そして、
生まれてはじめて、


「平穏な幸せ」を
感じている。






ああ … … …


親から
虐待・迫害されない人生って、


こんなに
平和 静穏 だったんだ … … …






そんなことに
深く 気づき 安心する … … …








父は、父のやり方で、私を苦しめた。


母も、母のやり方で、私を苦しめた。





その上、2人は、
死ぬまで、
私の保護を必要とした。




死後の始末も、私がした。







しかし今、
私は、

ようやく
彼らと無関係になれた。





ようやく、苦役から解放された。







遺産分配を終えるまでは、
まだ

2人の兄との関わりが続く。





兄たちは、
私と違って、
母から愛されていた。






(「愛」とは「理解と尊重」だと、私は考える。




母は、
兄たちを盲愛しただけで、
少しも
理解していなかった。




だから、
母の愛は、
本当の愛とは言えない…。)








兄たちは、
遠くに住み、
老親には知らん顔を決め込み、


老親の世話を
全部、私に丸投げした。






にもかかわらず、
彼らは
遺産だけは

平等に貰おうとしている。






しかも、長兄は、
私を

下女としてこき使うだけでは足りず、
理不尽な攻撃まで加え、

私を苦しめた。







早く、
身勝手でズルい彼らと
無縁になりたい。






しかし、それも、あともう少しだ。






私を
長年苦しめてきた原家族と、
私は、

もう少しで、サヨナラできる。







この半年、
私が

心の中で
ひそかに熱唱して来た歌がある。







岡林信康の「友よ」。







♪ ~ 夜明けは 近い ~ ♪ ~ ♪ ~