すずめの歌

夫と2人暮らしの日々

母の呪いに負けず、笑顔で生きて行こう♪

【長文】



ようやく、1つの「結論」を得ることが出来た。




今まで、私は、
足のつかない深い海で、溺れそうになり、

夢中に藻掻いていた。



長い時間、
もがき続けた結果、
幸運にも、
いつの間にか、足が地に着いた。



今はまだ、
口まで水に浸かっている。



しかし、もう、陸地が見えている。



これからは、落ち着いて、
陸地に向かって歩いて行けば良いのだ。





両親は、
長い間、私を支配していた。


しかし、私はもう、彼らに支配されない。



彼らは、愚かで、
何よりも、人として、大きく歪んでいた。


それなのに、
親として、子を強く支配した。


その結果は、惨憺たるものだった。


私を、大きく歪めた。




彼らのような人達は、
そもそも親になるべきではなかった。



賢い人なら、
人として正しく成熟した人なら、
そもそも、子を支配しない。



しかし、彼らには、それすら解らないのだ。






…母は、愚かな人であり、
「カタワ者には生きる資格がない」という
頑迷な偏見に支配された人だった。



わずかな奇形を持って生まれた私を見て、
母は、「カタワ者は死んでしまえ」と願った。



私は、
その強毒の視線を浴び、母に呪われて育った。






…遠い、遙かな過去の記憶を遡ってみた。



私の最古の記憶は、1、2歳時らしい。


「もう、おっぱいはダメ」と、
母からキツく言い渡された直後と思われる。


私は、とても寂しい気持ちで、
自分よりもずっと上方にある、
服におおわれた母の胸を、じっと見上げていた。


なぜ、あんなにも良いもの
(素晴らしい満足をもたらすもの)と
お別れしなくてはならないのか?と、
おっぱいを口一杯に含んだ時の

至上の幸福感を口中に感じつつ、
心から残念に思いながら、私は立っていた…。


とても、寂しかった…。




…そして、その頃以降の私には、
母に抱かれた記憶がない。
(外出の時、背負われた記憶はある。)




母は、食事をくれた。服を着せてくれた。



しかし、それ以上の事は、母はしなかった。



母は、私を放置した。
私を、可愛がらなかった。


(「死ね」と呪っているのだから、当然なのだが…。)




私はもちろん、
母に、もっと構って欲しかった。


しかし、母はいつも、そばにいなかった。


どこかに行っていた。


とにかく、母は、甘えられる相手ではなかった。




幼時から、成人後も、ずっと、
「荒涼とした寂しさ」が、私の心の色だった。




育った家庭での本当に楽しかった思い出というものが、
私には、ほとんどない。






父は、「自己愛性人格障害」だ。



60年間の家庭生活で、彼は、
妻と子を「自分の道具」として、

ひたすら「利用」した。




私は、
「父が自慢出来る学校と職業」を強要された挙げ句、
そこから逸脱し、
父からは「出来損ない」の烙印を押され、
勘当された。




母は、父の言葉に洗脳され、
父の判断に追随した。





長兄も、おそらく、
父と同じ「自己愛性人格障害」だ。



この人格障害は、遺伝するらしい。


その上、長兄は、
単なる「田舎秀才」だったにもかかわらず、
父から異常な賞賛を受けて育ってしまった。


その結果、
彼は、この人格障害になってしまったようだ。




「自己愛性人格障害」の特徴の1つに、
「嫉妬深い」がある。



長兄は、3人兄妹の中で、
両親から1人だけ、特別に溺愛された。


それなのに、彼は、
私と次兄を、異常に嫉妬していた。



また、彼は
私を過小評価してバカ扱いし、

激しく攻撃しながらも、
自分の代わりに、親の面倒を見させた。


私を自分の道具として、都合良く利用して来た。



その彼には、
私の苦労への共感は、微塵もない。





この20年間、
父がボケ、

母も年を取って自立出来なくなったため、
私は、やむを得ず、両親に助力してきた。



父は、
その助力を認識出来ないほど、ボケていた。



そして、母も、
最初のうちこそ、多少感謝を示していたが、
その後、急速に半ボケとなり、
それからは

殆ど感謝しなくなった。


私が「下女」のように働くのを、
当然視するようになった。




つまり、母は、
私の助力の結果、
自分が何とかやって行けている…という
正しい現状認識ではなく、
それ以前に持っていた古い認識、


すなわち、
「娘はカタワ者、恥さらし」という
過去40年間に

母が持ち続けた古い認識に、
頭が戻ってしまっている。





認知症になると、
新しい記憶から先に失い、
古い記憶ほど、

鮮明に保持される。




例えば、
知人のお母様は、
104歳まで生きたが、
4人の我が子を、
下から順に忘れて行った。


最後には、
子ども全員を忘れ、
旧姓で呼ばないと振り向かなくなった…そうだ。





私の母は、認知症とは判定されていない。



しかし、
母の頭の中では、
いまだに、
「長男=親孝行息子」「娘=恥さらし」なのだ。





しかし、昨夏、
その母の頭が、
ほんの一時だが、非常に活性化し、
かなり「まとも」になった事があった。



それは、
数年ぶりに、
「長男の妻」から母が電話を受けた、
その直後だった。



(長男の妻は、
最初から、母の非常なお気に入りだった。
彼女は、

とても如才なく母に取り入った。


「お父様お母様の老後は私達が見ます」とまで、
母に言った。


そう言われた母は、有頂天になり、
次男夫婦と私を、あからさまに蔑視した。


しかし彼女は、その後、
見事に母を裏切った。


父の葬儀にさえ、彼女は来なかった。


その後も、
知らん顔を決め込んだ。)



私は、昨夏のそのある日、
たまたま母に電話したのだが、
その時、母は、

まるで、80歳時のように、
とてもしっかりとした口調で、明晰に話をした。
そして、
私と私の夫に日頃から世話になっている感謝を、
明晰に、かつ、心から述べた。



しかし、
その母の明晰さは、
一瞬の幻のように、すぐさま消え去った…。



その後すぐ、母は、
「私を見くだし侮蔑する、いつもの母」に
戻ってしまった…。





しかし、今、
私は、
晴れて澄んだ青空の中にいる。




この青空に抜け出て来るまで、
私の頭上には、
どす黒く厚く重い雲が、
低くたれ込めていた。




しかし、今、
その黒く重い雲は、私の下方にある。





父からは、「父の望む学校と職」を強要され、
それによって、

私の青春は、ズタズタボロボロにされた。




… 苦しかった。




母からは、ゼロ歳から、
「カタワ者なんか、死んでしまえ」という
毒視線を浴びせかけられて育った。





父は、12年前に死んだ。
以降、
私は、父からは自由になれた。




しかし母は、
今もずっと、
「お前なんか死ね」という呪いの目で
私を見ている。





私は、結局、
今まで、
その「母の呪い」と戦って来たのだ…と思う。




そして、私は、
一時、
母の呪いに負けそうになった。



私は、
「価値がない自分は、死ぬべきなのかも」と、思った。



死が、私に、ぐっと接近して来た。



… 苦しかった。





しかし私は、
先日、
父が「自己愛性人格障害」であり、
自身を不当に誇大評価し、
他者を過小評価する「心の病気」だった…と知った。



そして、世間知らずの母は、
その父に、
完全に「洗脳」された愚者だった…と知った。



そして、
長兄もまた
「自己愛性人格障害」だ…と解った。




次兄は、
10歳以前から、父から逃避して読書に熱中し、
常に「我関せず」と、

家庭内で1人だけ別世界に住んでいた。


(彼は、朝から本を読みながら食事し、
一日中、本に没頭していた。)


父も、
「次男坊」だからと、次兄を自由にさせ、
殆ど干渉しなかった。
母も、同様だった。



だから、
次兄が、最も親を恨んでいない。



(そんな次兄を、
「アイツはうまく逃げやがって」と
長兄は、嫉妬していた。)





このように、
私にようやく、
生育家族の正しい全体像=病理が、
初めて、外側から見えて来た。




その両親に育てられて来た私自身の姿も、
ようやく、

客観的に、はっきりと見えて来た。




自分が「不幸な惨めな生い立ち」である事は、
事実だ。




私は、今も、
母と向き合うと、
母の毒視線・毒態度によって、一方的な攻撃を浴びる。



その時、
胸が鋭く痛む。




しかし、それは、
「どうしようもない現実」であり、
今更、母を変えられない…


私は、そう思い知った。





同時に、
「私は無価値・ダメ人間」という私の自意識は、
両親によって、

幼時から植え付けられて来たものだ…と、
客観的に距離を置いて眺め、

冷静に、相対的に、
明確に理解する事が出来た。





私は、今、
全ての真実を知った。





そして、
冷静に、それを受け止めている。





私は、
私を呪う母との戦いから、
かろうじて、

脱出した…。




私は
おそらく、
母の呪いに負けそうになる事は、
もうないだろう。



私の存在は、
宇宙に、

ゆるされているのだ。



世界中のひとが、そうであるように。



宇宙は、
父よりも母よりも、遙かに大きい。




… 長く、苦しい戦いだった。




けれど今、
私の心は、
かつてないほど、平安だ。



静かで穏やかだ。





これから先も、
母の「毒」を浴びる可能性がある。



その時、
苦しみは再来するだろう。




しかし、私はもう、
今まで散々繰り返した、
同じ場所を行きつ戻りつは、しない。




私は、らせん階段を上って行くのだ。




私は、これから、
精神的にもっと深化しよう。




親に育てられた過去の私とは、
少し違う人になるのだ。




既に60代半ば…。


しかし、心の旅を、まだまだ続けて行こう。



新しい、未知の世界を知り
どこまでも
自分を豊かにひらき、心を深く耕して行こう。







自分が

両親から
「心理的虐待」を受けて育った子どもだった…と、
明確に客観的にとらえる事が出来てから、


私は初めて、
他者を、
「その人の子ども時代、

その人は、どんな育てられ方をしたのか?」
という観点から観察するようになった。



(そういう観点から人を観察してみると、
なかなか興味が尽きず、奥深く、面白い。)




☆親からたっぷりと愛されて育った子だった人
から
★親から心身共に虐待されて育った子だった人
まで、
育ち方には、無数のグラデーションがある。



その育ち方は、
その人が自発的に選び取ったものではない。


あくまでも、受け身に与えられた環境だ。



しかし、
その「与えられた」ものが、
その人の「吸っている空気」や「見ている空の色」に、
大きく影響している。




私が、これまで長い間、
空気を「少し息苦しいもの」
空の色を「暗鬱なグレー」として感じていたように、


親からたっぷりと愛されて育った人は、
空気は「澄み渡って甘いもの」として、
空の色は「晴れ渡った爽やかな青」として、
感じとれているのだろう。




また、
対人関係も、私は、とても稚拙であり、苦手だ。



おそらく、両親から、
愛されるよりも攻撃されて育った事が
大きく作用しているのだろう。



その上、
小学校入学まで、家族以外との接触がなく、
7歳で初めて家族以外と接触した事、


また、
両親から与えられた劣等感により、
長く精神的に引きこもり、
他者と、円満な良い関係を築けた経験が非常に少ない事も、
大きく影響しているのだろう。





親から愛されて育った子だった人、
また、

早くから社会の他者との円満な接触を始めた人は、
私よりずっと、
他者との関係を上手く、豊かにこなせ、
他者との関係に、

幸福を感じているのだろう。






人間の運命は、本当に、さまざまだ。





私も、これから
「甘く澄んだ空気」
「爽やかに晴れ渡った青空」
「他者との幸福な関係」を

少しでも感じられる事を目標に、
生きて行こう…
と願う



自ずから
限界はあるのだろうけれども…。






※※
父も、母も、

可哀相な育ち方をした、不幸な人たちだった。


本当の「幸せ」を知らないまま、死んで行った。


(母は、まだ生きているが、
既に、半呆けだ。
たぶん彼女は、
このまま数年間を過ごし、
やがて更にボケ、
死へ突入して行くだろう。)





彼らをそういう風に育ててしまった、
彼らの親もまた、
不幸だったのだろう…。





私が幸運なのは、
私の1人息子が今、
「自分は幸せだ」と、言い切っている事だ。



私の子には「幸せ」になって欲しい…
というのが、

私の悲願であり、
私の人生の大きな目標だった。



私は、それをどうやら、達成出来たらしい…。




思い返せば、
息子を育てて来た20年間、
私も幸せだった。




最初の3、4年は、
どうして良いか分からず、
間違った事を、沢山しでかしてしまった。


当時の私は、
まだまだ親の価値観に支配されていて
不幸だった…。



しかし、
息子が4歳になった翌日、ある出来事があった。


それ以来、私は、
「息子が笑顔でいるようにする」と、心に決めた。



それからは、
私自身、少しずつ笑顔が増えて行った。


昔の私とは別人になって行き、
子育てを楽しめるようになって行った。





これから
私は、
できるだけ笑顔で、
肩の力を抜いて、
ゆったりと生きて行こう…。






※※※
もし、子を産まなければ、
私は、

実家に出入りする事はなかっただろう。


兄2人は、
遠方の地で知らん顔を決め込んだのだから、
結局は、
近くにいた私が

両親を世話する成り行きになっただろう。



しかしそれでも、
最初から、
「なるべく疎遠に」という方針で接したように思う。




けれど、私は、
生まれた息子に「祖父母」を与えようとした。



そしてその結果、
私は、両親に近づいてしまった。



また、
両親が溺愛した長男ではなく、
彼らが憎んだ私が世話をする事で、
彼らが、

私を見直すのでは?と、
当時の私は、期待した。



しかし、
現実は、
そうはならなかった。


両親の私への評価は、変わらなかった。




結局、
この20年の両親への接近は、
私自身を

大きく苦しめて終わった。





けれど、
私は今、
苦しみの果てに、1つの結論を得た。




両親から精神的に
自分を解放した。




両親からの60数年にわたる攻撃から逃れ、
自由になれた。





私よ、おめでとう!!!






※※※※
長兄も、次兄も、
人として大きな歪みがある。



おそらく、
私自身にも、大きな歪みがあるのだろう。




しかし、
植物が芽生える場所を選べないように、
私は、

あのような両親から攻撃されて育ってしまった。



植物は、
芽生えた場所で精一杯、育ってゆく。
急峻な崖に咲く百合もある。



私は、百合ではない。
荒れた土壌の日陰に生きる、小さな雑草だ。




人間には、
自分と似た人と付き合いたがる性質があるそうだ。



つまり、私は、
親に愛されて伸び伸びと育った人とは親和性がなく、
自分と同じように親にいじめられて育った人に

親和性があるのだ。




確かに、
今愛読している、

私にとって最もスリリングなブログの1つも、
かなりの被虐待児だった女性によって書かれている…。




私は私なりに、
模索しつつ、生きて行こう…。






※※※※※
私自身は、幸いにも、
父の「自己愛性人格障害」を

継承せずに済んだ。



そして、
5人の生育家族の中で、たった1人、
生育家族の病理を解明し、

真実に到達する事が出来た。




その意味で、
私は、本当に幸運だ…。





遺伝子は、
両親から完全に50%ずつではなく、
数%は、突然変異により、生じるらしい。




ひょっとして、私の幸運は、
突然変異により、
もたらされたのだろうか…。





生命は、
大きな神秘に
満ちている…。




その神秘にゆるされて
万人は
生きている…。